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「小堀流[一世]_小堀正一_宗甫」
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小堀流[一世]_小堀正一_宗甫

 「小堀流」と後に他の茶家と並び立つ流派の祖となったのは、武家・大名の小堀正一です。従五位下遠江守を賜ってからの名乗り「遠州」のほうが有名でしょう。茶の湯に限らず、作庭、書、陶器などに才能を発揮し、その進取の気風と発明力によって江戸時代のダヴィンチと見る向きもあります。茶風は後に「きれいさび」と呼ばれる独特の境地を開き、後世に伝えました。

「きれいさび」その心は「雅」の一言

 遠州は10歳で利休に出会い茶の湯を目指し、14、15歳で古田織部に弟子入りしています。利休の侘び茶の心、そして織部流の武家茶道の心を受け継ぎ、遠州なりの好みが加えられたその茶風は「きれいさび」と呼ばれます。その心は「雅」の一言で表せるかもしれません。
 和歌を冷泉家に学び、古今伝授を受けるほどになり、その流れで書は藤原定家を好むようになります。過去、平安の王朝文化は茶の湯を疎んじた歴史がありますが、その王朝文化の風雅を積極的に取り込んだのが遠州でした。江戸時代初期から中期にかけて「綺麗」という言葉がはやり、「きれいさび」ももてはやされましたが、「綺麗」と「きれいさび」の感性は厳密に言うと違うものでしょう。
 業績としては、作庭に優れたものを残しています。存命中は何度も「作事奉行」を務め、御所や城、寺社の庭、書院、茶室を手がけていました。代表的なものに、駿府城(この功績により下遠江守を賜る)、江戸城西の丸の山里の茶亭、東照宮の社殿、桂離宮の新書院などがあります。当時日本に入り始めた欧風文化を学んだという説もあり、遠近法を活用した庭や、花壇を設けた庭などを造成しています。

「きれいさび」の境地を開いた小堀遠州

 道具についても多くの才能を見せており、枚挙の暇がありません。自ら細かく指示して作陶させ、茶道具を自作し、作品製作だけでなく依頼を受けて命銘、箱書き、添状も多く残しています。その事跡をまとめた『遠州蔵帳』『遺物帳』に記載される数は相当量なものになります。もろもろの道具は後に不昧によって規定された「中興名物」にあたり、高く評価されるものが少なくありません。日本の雅を取り入れ「きれいさび」の境地を開いた小堀遠州。その茶道具にも雅とさびが同居しているさまがよく見られます。