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「日本画 今村紫紅」
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日本画 今村紫紅
紅児会所属の日本画家・今村紫紅(いまむらしこう)。その画法は形にとらわれない大胆な構図のものが多く、代表作は「風神雷神」「近江八景」「熱国之巻」等です。
神奈川県で提灯屋の末っ子として生まれた紫紅は、15歳頃に山田馬介からターナー風水彩画を学びます。1897年(明治30年)に兄と一緒に松本楓湖を師と仰ぎ、大和絵の粉本を模写し続けました。兄の指導は厳しいもので、まだ描画が未熟であった紫紅を外に連れ出して写生しに行かせたり、走る馬を写生するために紫紅もともに走らせて写生をすると言う一風変わったエピソードもあります。翌年の1898年(明治31年)には早くも日本美術協会展で初入選し、安田靫彦らが結成した「紫紅会」へ入会しました。この時「紫紅会」は紫紅と名前が同じであったため「紅児会」と名称を変更しました。「紅児会」は大和絵系の日本画家の集まる研究団体で歴史画を主に制作・発表を続けましたが、1913年(大正2年)に団体は解散します。
1907年(明治40年)には日本美術院研究所にて岡倉天心と運命的な出会いをします。さらにそこで岡倉天心の指導を受けていた菱田春草や横山大観らの制作姿勢を間近で体感することでとても良い刺激となったようです。「先人で誰が好きか」という岡倉天心の問いに対し俵屋宗達の名を上げた事により紫紅は岡倉天心に認められるきっかけになったそうです。
今村紫紅の後期の作品は南画風に描かれた作品が多くみられます。そのため日本画が持つ因習を壊す事を試みるなど、何事にも縛られず自由に作画することを望みました。 今村紫紅が生涯をかけた命題は、構図・主題・色彩など全てが自由な日本画への改革だったのではないかと思われます。その革新派で親分肌な性格から、将来を大いに期待されていましたが、脳出血とアルコールのよる肝臓病のため35歳という若さでこの世を去ってしまいました。「頭脳明晰で意志が強く、熱い情熱を持っている一方では常に冷静な判断を下せる人で、情に厚い人間だった」と惜しまれるような人物でした。
神奈川県で提灯屋の末っ子として生まれた紫紅は、15歳頃に山田馬介からターナー風水彩画を学びます。1897年(明治30年)に兄と一緒に松本楓湖を師と仰ぎ、大和絵の粉本を模写し続けました。兄の指導は厳しいもので、まだ描画が未熟であった紫紅を外に連れ出して写生しに行かせたり、走る馬を写生するために紫紅もともに走らせて写生をすると言う一風変わったエピソードもあります。翌年の1898年(明治31年)には早くも日本美術協会展で初入選し、安田靫彦らが結成した「紫紅会」へ入会しました。この時「紫紅会」は紫紅と名前が同じであったため「紅児会」と名称を変更しました。「紅児会」は大和絵系の日本画家の集まる研究団体で歴史画を主に制作・発表を続けましたが、1913年(大正2年)に団体は解散します。
1907年(明治40年)には日本美術院研究所にて岡倉天心と運命的な出会いをします。さらにそこで岡倉天心の指導を受けていた菱田春草や横山大観らの制作姿勢を間近で体感することでとても良い刺激となったようです。「先人で誰が好きか」という岡倉天心の問いに対し俵屋宗達の名を上げた事により紫紅は岡倉天心に認められるきっかけになったそうです。
何にも捉われず、自由に己の描きたい絵を描いた
1911年(明治44年)に各方面からの援助を受け、日本や中国の古美術の鑑賞をして研究を重ねました。その結果第6回文展(文部省美術展覧会、現・日本美術展覧会=日展)で二等賞を受賞した「近江八景」は、大和絵の伝統を受け継ぎながら南画(中国の南宗画に近い物)の研究に基づく柔らかな線や印象的な色彩や点描を融合させた今村紫紅独自のスタイルを確立させました。今村紫紅の後期の作品は南画風に描かれた作品が多くみられます。そのため日本画が持つ因習を壊す事を試みるなど、何事にも縛られず自由に作画することを望みました。 今村紫紅が生涯をかけた命題は、構図・主題・色彩など全てが自由な日本画への改革だったのではないかと思われます。その革新派で親分肌な性格から、将来を大いに期待されていましたが、脳出血とアルコールのよる肝臓病のため35歳という若さでこの世を去ってしまいました。「頭脳明晰で意志が強く、熱い情熱を持っている一方では常に冷静な判断を下せる人で、情に厚い人間だった」と惜しまれるような人物でした。
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