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「日本画 菅楯彦」
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日本画 菅楯彦

菅楯彦

菅楯彦(すが たてひこ)は1878年(明治11年)鳥取県倉吉藩士の長男として生まれ、「浪速の絵師」と呼ばれた日本画家で、浪速の風俗を生涯にわたって描き続けた。 明治維新で武士社会が崩壊したため父は趣味だった絵で生計をたてようと、大阪市南区天王寺常盤通(現在の大阪市阿倍野区松崎町)に居を移したが脳卒中で急死してしまい、楯彦は12歳にして父に代わって着物の図柄やちょうちん、看板などの絵を描いて生計を助けようとした。 しかし未だ少年の描く絵が売れるわけもなく、まさに赤貧洗うがごとき生活ぶりであったという。 楯彦は父からの手ほどき以外にはこれといった師匠にもつかず、もっぱら大阪の博物場に入り浸って古今の名画を模写して独学しながら腕を上げていった。 やがてその腕を見込まれて学校の図画教師になって、やっとどん底の暮らし向きからは逃れられ、大和絵、浮世絵、文人画などを折衷したような独自の画風を築きあげていった。 生涯にわたってどの画壇にも属さず、市井の絵師として貫き通した。 そんな楯彦が一躍時の人となったのは、ある芸妓との結婚であった。 その芸妓というのは、東京赤坂の万竜、京都祇園の千賀勇と並んで、日本三名妓の一人と云われた大阪南地の富田屋の八千代であった。 出会いのきっかけは、富田屋の主人が芸妓たちに、茶・華道・琴・三味線・日舞から和歌・俳句・絵画を学ばせていたが、その絵の指導に楯彦が招かれたことである。 「あの富田屋の八千代が手鍋さげて押し掛けた男はどんな奴やろう」と世間の好奇心も集まり、楯彦の絵は飛ぶように売れるようになった。 嫁いでからの八千代の暮らしぶりは慣れない炊事・洗濯で、ひび・あかぎれだらけであり、楯彦の友人であった谷崎潤一郎によれば、「どんな金持ちや偉い方の奥さんにもなれた彼女の姿に涙ぐむ者は多かった」という。 しかし八千代は7年後にわずか37歳で病死し、以後楯彦は二度と妻帯せず、85歳で自らの臨終の時には「八千代の着物を掛けてくれ」と頼んだと云う。