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「鳥海青児」
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鳥海青児
1902年、現在の神奈川県平塚市で生まれた洋画・鳥海青児は、本名を鳥海正夫といいます。幸運なことに、湘南に住んでいた岸田劉生や満鉄五郎から直接、絵の指導を受けることができました。関西大学経済学部在学中の1924年、第2回春陽会に初入選します。三岸好太郎、横堀角次郎らと麓人社を結成、画家としての絵画修行に励みます。そして1930年、フランスへと旅立ちます。3年間、パリを中心にしながら北アフリカのアルジェリア、スペインなどに滞在し、油彩画による写実表現の実践を試みました。オランダでは、レンブラント、ゴヤといった日本でも人気の高い画家の影響を受けたと後に述べてします。旅先で感性を磨き上げ、ヨーロッパから帰国して春陽会の会員となった鳥海は、キャンバス上に、大地が包含している存在感を表すため、土色の油彩画をこねくりまわし、大地を耕したような表現を追求した「信州の畠(二)」(1936年制作)などの作品を発表しました。日本の風景を、油彩画で、欧州の絵画の単なる模倣に終わることなく、いかにオリジナリティを持って表現することを追究した結果でしょう。高橋由一以来なされてきた、油彩画によるレアリズムの追求は、鳥海も戦前から行なっていたものなのです。1943年には春陽会を退会、独立美術協会の会員となります。戦後は、同じ大地を別の方法で表現する道を模索し、「段々畑」(1952年制作)のような独特の画風が確立されていきました。最近では、この重厚なマティエールに日本的な油彩画の達成を見出そうとする評価が表れはじめています。1955年には、芸術選奨文部大臣賞を受賞する栄誉に輝きました。1972年、肺炎のため70歳でこの世を去るまで数多くの作品を私たちに残してくれた鳥海青児。死期が迫ってからも、第4回サンパウロ・ビエンナーレ展に出品、取材旅行をこなすなど精力的に活動しました。戦前の作品は、いつの時代でも色あせずに輝き続ける迫力を持った美術品として、戦後の作品は、端麗さとコミカルさを内包しているアートとして、いずれも一流であるのは言うまでもないことでしょう。