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「坂本繁二郎」
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坂本繁二郎
小学校のときに、同じく著名な日本人洋画家である青木繁と同級生だった坂本繁二郎。彗星のごとく現われ、輝かしい画業を打ち立てて、この世からそそくさと去ってしまった青木とは正反対に、じっくり写実を試み、長い人生のなかで、彼特有のアウラが立ち込めるような画風を確立していきました。坂本繁二郎は1882年、福岡県久留米市に生まれました。父の名を坂本金三郎、母の名を歌子といい、坂本家の次男として育ちます。親の愛情を受けながらすくすくと育ち、久留米高等小学校に入学しますが、4歳のときに父が亡くなったこともあって金銭的に苦しく、進学の道をあきらめることになります。そして、坂本は、小学校の図画の先生をして生計を立てる道を選びました。しかし、その職を辞した後の1902年に同郷の青木繁とともに上京、太平洋画会研究所に通って、絵の技術を習得します。1908年には、北澤楽天主催の漫画をベースに編集されたメディアである「東京パック」で、紙上漫画を描きました。当時は漫画を専業にする画家は少なく、坂本も生活のために書いていたのではないかという風に言われています。少しずつ力を蓄えていった坂本は、展覧会への入選を果たすことも増え、周囲から認められ始めます。1910年以降、連続して文部省美術展覧会に入選、1920年の二科会に「牛」を出品し、その深みのある世界によって評判となりました。また、その翌年から3年半、39歳という年齢で、ヨーロッパに留学を果たします。留学先のフランスでは、静寂をたたえた灰色を主調にした詩的な画風を作り上げることに成功しました。そして、日本に帰国。帰国後は郷里に戻ります。八女にアトリエを建設し、ひたすら身のまわりのものを描き続けました。戦中もあまり時代の影響を受けることなく、戦後に芸術院会員の話が舞い込んできても断るほどでした。福岡の八女に仙人として、ひたすら絵筆を握り続け、能面や雲のかかった月を幽玄の感じがこもった作品として表現し、いまなお彼の作品は、高く評価されています。