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「日本画 入江波光」
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日本画 入江波光

入江波光

日本画家、入江波光は、本名を幾治郎といい、1887年京都市に生まれました。そして、1899年、森本東閣に師事し、「波光」の号を授かったと言います。代表作には、「彼岸」(1920年、京都市美術館)、「風浪漁舟」(1939年、京都国立近代美術館)など、京都にある美術館を中心に作品が展示されています。彼の作品、「叢と子供」(1925年)や「南伊太利トルレデルグレコ」(1926年)などを見ると、入江は「光の画家」であったことがうかがい知れます。印象派の画家は、燦々と降り注ぐ光を描くことが多いですが、彼の作品からは、人の内面からしみ出してくるような、爽やかな風のような光を感じ取ることが出来ます。彼の作品から発する光の意味を本当に理解するためには、イタリア、アッシジへ足を運ぶのが良いと思われます。大正11年4月、彼は、中井宗太郎、菊池契月らとともに、ヨーロッパへ渡ります。そして、イタリア初期ルネッサンスの美術の中でも、特にフレスコ画に興味を持ち、自身の作風を一変させるに至るのです。彼は、『画論』の中で、「困難というものを、いつも自分への一番新しい課題だと考えられたら、余計に元気が湧きはしませんか。』と述べております。そのように、トラブルに打ち勝って素晴らしい作品を仕上げた彼の姿には、教えられることが多いはず。彼の作品には感ずるところも多いでしょう。昭和3年、国画創作協会が解散したのを期に、そうした画風が忽然と姿を消すことになります。そして、昭和14年に、親友だった村上華岳が亡くなってからは、法隆寺金堂の壁画を描くことに没頭してゆきます。約8年間もの長きに渡って、精神をすり減らすようにして阿弥陀浄土の慈光を描き続けた彼の姿には、周囲の人々を寄せつけない迫力があったという話です。しかし、昭和23年、もう少しで模写が完成するという時に、彼は、精魂が尽き果てたかのようにこの世を去ります。また、奇しくも、その翌年には法隆寺金堂が焼失してしまうことになります。