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「古書 大田垣蓮月」
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古書 大田垣蓮月

大田垣蓮月

悲しき人生を歩んだ絶世の美女、骨董買取・大田垣蓮月。

 大田垣蓮月は江戸時代後期に歌人、陶芸家として名が知られていた尼僧です。大田垣蓮月は俗名を誠(のぶ)といい出家すると蓮月と号しました。絶世の美女であったとされる大田垣蓮月ですが、その人生は決して穏やかではありませんでした。大田垣蓮月が養父、大田垣光古の養女となる前に、彼の五人の子供のうち四人が亡くなり、ただ一人成人した末子の仙之助も亡くなってしまいました。そこで光古はもう一人養子を迎え、望古と名乗らせました。大田垣蓮月は二度の結婚をしましたが、一度目の結婚は文化4年(1807年)ごろで、夫としたのが養子として迎えられた望古でした。望古との間には三人の子供が生まれましたが、いずれも幼くして亡くなり、夫である望古も文化12年(1815年)に亡くし、大田垣蓮月は25歳にして寡婦となります。望古の死から四年後の文政2年(1819年)に、大田垣光古の新たな養子となっていた古肥と二度目の結婚をします。大田垣蓮月との間に一人の女の子が生まれましたが、古肥は文政6年に亡くなってしまいました。絶世の美女で知られた大田垣蓮月は、言い寄って来る男達に心が疲れ、自ら醜い老婆になってしまおうと歯を抜き、血塗れになってその美しさを己の手で失わせてしまったそうです。
 古肥の死後、大田垣蓮月は仏門に入ることを決め、養父の光古とともに剃髪します。剃髪後に俗名の誠(のぶ)から蓮月に、光古は西心と号しました。しかし出家した二年後には古肥との間に生まれた女の子も亡くなってしまいます。絶世の美女であったとされる大田垣蓮月ですが、その人生は死別を繰り返し、その悲しみは想像するに余りあります。ですが大田垣蓮月は慈愛の精神をもち続けました。作品として有名なのが大田垣蓮月の和歌を釘彫りした陶器、蓮月焼です。蓮月焼は贋作が多く世に出回っている、というのが有名ですが、これは大田垣蓮月が己の作品が、贋作人の生活が支えられるならと自らそれを許し、さらには贋作の中に自分の作品を紛れ込ませて売らせていた、という逸話もあるくらいです。故に、この世に大田垣蓮月の作品の贋作が広がることになったわけですが、他の芸術家の贋作とは違い、大田垣蓮月の蓮月焼の贋作は、どういうわけか不快には感じませんでした。それは彼女自身が贋作の存在を許し、またそれを売る人々のことを想っていたからでしょうか。その慈愛に満ちた彼女の精神から、贋作さえも大田垣蓮月が生み出した愛の作品の一つ、というように捉えても不自然ではないかと思います。愛する者を何度も失った大田垣蓮月。その作品達である蓮月焼の贋作の多さは、彼女の愛の大きさを表しているのかもしれません。芸術家にとって贋作は腹立たしい対象だと思いますが、大田垣蓮月にとっては、自分の作品が人々の役に立っている、という喜びでもあったのでしょう。結果的に贋作が世に広まることになっても、それを売って日々を生き抜く人々がいるなら、彼女はいくらでも贋作の存在を許し、それを喜んだのではないかと思います。