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日本画 荒木寛畝
日本画家の荒木寛畝(あらきかんぽ)は1830年(天保2年)に江戸の芝増上寺の俗役を務めていた田中家の三男として生まれた画家ですが、洋画にも秀でていた画家でもあります。幼くして書に天分を現し、9歳の時には父の命で書家荒木寛快の下へ入門しますが、書よりも彩色画に溺れ、独学ながら才を現し荒木寛快は荒木寛畝を養子とすることを約束したのです。18歳の時に増上寺の大僧正の随身となりましたが、ある時「三老日拝」の古書を模写したところその出来栄えを認められ、以後その道に精進することになりました。
26歳の時には米国のハリスが渡来するなど世の中が騒然とし始めていた頃、山内容堂公に認められて山内家の絵所に登用されましたが、時代は激しく動き始め鳥羽伏見の戦いを経て1872年(明治5年)に至るまで筆を取る暇もなく容堂公に仕えていました。やがて容堂公が亡くなってからは、製図所の下級役人として生計を立てながら当時流行していた洋画の勉強に打ち込み始めました。おりしもこの頃行われたウイーン博覧会に日本画の「菊花図」を出品したところ受賞したことが契機となり、画一筋に生きることを決意し退官することとなりました。その後54歳までは油絵に没頭し油絵三名家とまで言われるようになりましたが、生計を満たすほどには画は売れず、ついに日本画へと復帰することになりました。それ以降は南北合派に洋風を加味した写実的な花鳥画を得意とし、独特の画風を作り上げていったのです。あるとき皇太后宮の御肖像を描くという名誉を博し、これが機縁となって皇居造営に際しては杉戸絵を制作し、以後御用画を数多く描くことになりました。
こうして晩年は名声を確固としたものにし、67歳には東京美術学校(現東京藝術大学)の教授になり、76歳では第1回文展(文部省美術展覧会、現・日本美術展覧会=日展)の審査員をも務めました。1890年(明治23年)制作の「孔雀之図」は荒木寛畝の代表的な作品でありますが、この画を見て感動を覚えない者はいないでしょう。大胆な構図、精細な筆致、日本画でありながら洋画を偲ばせる技法は独特のものであり、今日いまなお私たちに感動を与えてくれています。
26歳の時には米国のハリスが渡来するなど世の中が騒然とし始めていた頃、山内容堂公に認められて山内家の絵所に登用されましたが、時代は激しく動き始め鳥羽伏見の戦いを経て1872年(明治5年)に至るまで筆を取る暇もなく容堂公に仕えていました。やがて容堂公が亡くなってからは、製図所の下級役人として生計を立てながら当時流行していた洋画の勉強に打ち込み始めました。おりしもこの頃行われたウイーン博覧会に日本画の「菊花図」を出品したところ受賞したことが契機となり、画一筋に生きることを決意し退官することとなりました。その後54歳までは油絵に没頭し油絵三名家とまで言われるようになりましたが、生計を満たすほどには画は売れず、ついに日本画へと復帰することになりました。それ以降は南北合派に洋風を加味した写実的な花鳥画を得意とし、独特の画風を作り上げていったのです。あるとき皇太后宮の御肖像を描くという名誉を博し、これが機縁となって皇居造営に際しては杉戸絵を制作し、以後御用画を数多く描くことになりました。
こうして晩年は名声を確固としたものにし、67歳には東京美術学校(現東京藝術大学)の教授になり、76歳では第1回文展(文部省美術展覧会、現・日本美術展覧会=日展)の審査員をも務めました。1890年(明治23年)制作の「孔雀之図」は荒木寛畝の代表的な作品でありますが、この画を見て感動を覚えない者はいないでしょう。大胆な構図、精細な筆致、日本画でありながら洋画を偲ばせる技法は独特のものであり、今日いまなお私たちに感動を与えてくれています。
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