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「掛軸 野島青茲」
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掛軸 野島青茲

野島青茲

日本画でありながら、日本画らしくない。そんな斬新で清新な作品を描き続けていた画家が、掛軸買取 野島青茲という男です。花鳥図などは勿論、繊細で端正な筆遣いで描かれる美人画など、非常に評価が高く、現在でも野島青茲の残した作品は、多くの人々に感動を与え続けています。そんな野島青茲は、1936年に細江町気賀吉野屋旅館の長男としてこの世に生を受けます。父であった勘作は青茲を医者にしたかった為に東京への上京を許すのですが、野島青茲自体、画の素質があったようで、結果的にその意に反して東京美術学校の日本画科をしています。その背景には、幼少の頃から絵画に魅せられており、16歳の時分、松岡映丘画塾に入門していることが関係しているのでしょう。東京美術学校を卒業した後、1936年に文部省美術展覧会に初出品した「田の草取り」が入選を果たすことになります。この時、野島青茲は21歳でした。この入選をキッカケに広く活躍をしていくことになります。1939年には、第一回日本画院展で日本画院賞を受賞しており、名実共に日本画壇の仲間入りを果たします。その実力が認められたこともあり、1944年には、文部省国宝保存会の法隆寺金堂壁画模写に携わります。この時は、中村岳陵班員として参加 しており大きな仕事を成し遂げることとなりました。その後は、第五回日本美術展覧会 特選などを通して、第8回日本美術展覧会出品で、以降無鑑査依嘱という事となります。無鑑査出品という立場になったことで、活躍の場を日展に変化させます。第三回の日展では、菊花賞を受賞し、1965年の第八回日展では、「母子像」が文部大臣賞を獲得するなど、美術界に多大なる貢献を続けていくのです。美しく、繊細で日本画の良さだけを残す斬新な作風は、将来を非常に期待されていました。しかし、急性心不全に陥り、55歳という若さで他界。帰らぬ人となってしまったのです。掛軸買取に関しても、野島青茲の作品は、多大なる評価が与えられ高価な価格で取引されています。若くしてこの世をさりながらも、その存在感はどんな画家よりも大きかった野島青茲。彼の残した精神は、まだまだ生き続けているのです。