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「古書 高橋泥舟」
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古書 高橋泥舟

高橋泥舟

山岡鉄舟の義兄であり、武士、文化人であった人物が骨董買取・高橋泥舟です。槍一筋、節義一筋に人生を生き抜き、馬鹿正直ものと言われ勝海舟に山岡鉄舟と並んで「幕末の三舟」と呼ばれた人物でした。山岡正業の次男として江戸に生まれた高橋泥舟。山岡家は当時、槍使いの名家といわれており、その槍さばきは神業とさえ言われあがめられていました。そんな家庭で英才教育を受け続けていた高橋泥舟は、22歳の時分に講武所槍術教授となり、同槍術師範として活躍を続けます。山岡鉄太郎と親交があり、互いに信頼して信頼を築き上げて行きました。理論武装派では一切なく、心情的な方向性を好んでいた傾向があるそうです。1863年には、八郎の立案で「浪士組」を結成。将軍家茂の護衛、という名目で一橋慶喜に随行して上洛しています。鵜殿鳩翁に管理をさせていましたが、八郎が京において、独断で朝廷に上書し勅諚を賜ってしまったことで、尊皇攘夷への回天を計る前代未聞の事態を引き起こすこととなります。管理が行届かなくなってしまったことにより、士組取扱に泥舟が抜擢されます。そして、この時に高橋泥舟が全てを統率させます。そして、その時に上洛中の将軍家茂が、浪士取扱を親諭します。槍の名手でみあった高橋泥舟は、天才的な技量を孝明天皇の叡聞に達し、勅許を奉じ、従五位下に叙せられた後に、伊勢守を称することになっているのです。浪士組が江戸にする時に、朝廷からの攘夷決行の勅諚を賜ったことで、攘夷を断行する必要があると山岡鉄太郎と共に幕閣に訴えを起こします。しかし、その行動のおかげで幕府からは要注意人物という見られ方をしてしまった八郎が暗殺されます。結果的に、攘夷決行は絶たれることとなったのです。高橋泥舟の人物像は、非常に信頼が高く、借金をするも「この顔が担保でござる」と放ち、相手も「高橋様なら決して人を欺くことなどないでしょう」というようなやり取りがあったと言われる程の人物だったようです。時代が進み、廃藩置県後になると職を辞しており、東京に隠棲しながら、書画骨董の鑑定を行い後半生を送っていったということです。槍の名手でもあり、その男気溢れる生き様は多くの支持を集めています。古書買取に関しても、高橋泥舟の関係の品は高価買取となります。明治期を作り上げた重要人物の1人として、高橋泥舟は語り継がれて行くことでしょう。