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「表千家_[十一代] 瑞翁宗左_碌々斎」
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表千家_[十一代] 瑞翁宗左_碌々斎

瑞翁宗左_碌々斎

 風雲急を告げる幕末、近代日本の幕開けとなった明治維新。この激動の時代、千家没落の危機を乗り切り、現代に通じる基盤を守り続けたのが十一代碌々斎でした。 明治維新が起きたのは1868年、時に碌々斎32歳のことでした。19歳で家督を譲り受け、その5年後には父、吸江斎をなくし、一人で表千家を支えてき碌々斎は、新政府側に加担し謀議を巡らしたという記録も残されています。しかし、新政府樹立後は、近代到来の波の中、茶道は次第に軽んじられ、時代から取り残されていきます。徳川由来のものはことごとく廃され軽んじられる風潮も強く、徳川紀州公の恩顧の厚かった表千家は風当たりの強いこともあったでしょう。この苦難のときにあっても碌々斎は自らの茶の道を失うことなく、苦難の時を耐え忍びます。
 その辛苦が一転するのが明治13年、京都北野天満宮で催された献茶の儀でした。これは、古くは豊臣秀吉の「北野大茶湯」に由来するものです。の復興の道を献茶に見出していた碌々斎は、このとき立派にを催し、これを機に再び茶道が認められるようになるのです。その背景には、当時の財界・政界にいわゆる「数寄者」が多く集まっていたことも関係していたと言われています。中でも、大阪の実業家、美術商らの団体・共香社は、その後も表千家の後ろ盾となり、茶道の復興と発展をささえていきます。こうして表千家は復興を遂げ、明治20年には、碌々斎が明治天皇にを立てるほどにまで復興します。

非常に特徴的な碌々斎の作品

 碌々斎ゆかりの茶道具でもっとも有名なものは、前述の北野天神の献茶の折に使われた台子の竹柱を削りだして作った茶杓「北野三十本」です。茶杓は時代を下るにつれてさまざまな形状に変化していきますが、碌々斎作の茶杓は櫂先(かいさき。茶杓の先端)が鋭角になっており、非常に特徴的です。 他にも、伏見稲荷の鳥居の古材を使った香合や、大阪の磯良神社にあった桜の古材を使った蓋置を残しているなど、古材の使用を好むことが多かったようです。 写しとして残るものは、棚物が目に付きますが、総じて多くはありません。