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「古書 近衛信尹」
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古書 近衛信尹

近衛信尹

菊亭晴季の蠢動において、豊臣秀吉に関白就任の口実を与えたことで有名な公家で書家の骨董買取・近衛信尹。書や和歌などに才能を発揮し、様々な作品を生み出していった芸術家としても広く知られている人物の1人です。1565年に生まれた近衛信尹は、幼い頃より父と地方に暮らしており、帰京した後も信長の小姓らと懇意にしていたこともあり、武士に憧れていたと言われています。名前の由来としては、服時に織田信長から一字もらったことで信基とし、 後に信伊となっています。成長した近衛信尹は、右大臣と左大臣を経てからの1592年肥前へ下っており 1594年勅勘という名前として防津に流されるます。しかし、1596年許されて帰京。1601年に左大臣に返り咲いたその後、1605年には念願の関白として活躍をすることとなります。しかし、その大役も長くは続くことが無く、結果的に剃髪してしまい、法名を三藐院として生活を始めることとなります。近衛信尹は、先祖であった藤原道長が記している「御堂関白記」寛弘5年12月20日条の裏に、「後深心院関白記」を抜粋。自筆で書した本のうちの5巻分を折状の状態としています。公家としても名声の高かった近衛信尹なのですが、書家としても非常に優れた才能の持ち主として広く知られています。書や和歌、連歌、絵画に音曲諸芸までも、様々な芸術のジャンルで才能を発揮し、数々の文化人との交流も持っています。その中でも特に力を入れて活動をしていたのが、書道です。青蓮院流に書を学んでおり、基礎を修練した後には自分なりの解釈で新しい一派へと昇華。近衞流や三藐院流と称され、書家における大家として広く名を馳せていきました。また、その功績は日本文化に高く貢献したとされており、本阿弥光悦と松花堂昭乗という大家達と共に、「寛永の三筆」と後世に、能書を称えられているのです。古書買取においても、近衛信尹の作品は非常に高価な価格がつけられており需要は高いのが現状です。日本文化、そして歴史を作り上げた功労者、近衛信尹。彼の存在こそ、日本文化を支えた大切なものだったのです。