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「小堀流[十一世] 小堀正快 宗明」
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小堀流[十一世] 小堀正快 宗明

小堀流[十一世] 小堀正快 宗明

 一般への茶道普及に門戸を開いたのが先代宗有であったならば、十一世宗明は、その道を確かなものにした小堀家近代の祖といって良いでしょう。明治21年に生まれ、父宗有が亡くなって22歳で宗匠を継ぎ、明治、大正、昭和と激動の時代を生き抜き、遠州の道統をつないでいます。
 その経歴も近代的です。東京美術学校に入学し、彫刻・塑像を学び、日本画は小堀家とかかわりの深い、狩野家の狩野探令に学ぶなど、今までにない学業の修め方をしています。こうした多方面に渡る美の習得は、後に青山南町の地所に建てた新居の造営に役立つことになります。この地所は、陸軍軍医制度を確立し、枢密顧問官も勤めた石黒況翁子爵が小堀家に提供してくれたもので、戦後まで長く小堀流普及の拠点になりました。 この邸宅の造営は宗明40代のころであったといわれています。そのとき、宗明は茶室や母屋の設計はもちろん、庭の造作も現場に足を運び、こまごまと指示を出したそうです。その姿はまさに作事奉行として活躍した遠州その人にも比肩しうると言われています。

近代の小堀流の隆盛の礎

 茶の湯に関しては、初めて地方への出張指導を行ったことがエポックメイキングとして記録に残されています。先代までは格式ゆえ、小堀本家に拠る指導しか認められていなかったのですが、宗明の代に至って初めて遠州以来縁故のあった大名の城下に門人の子弟を訪ねて指導を行っています。流儀の格式や正統に固執しなかったことが近代の小堀流の隆盛の礎となっていると言えるでしょう。また、遠州好みの窯の復興にも尽力しており、一時廃窯したものもあった遠州七窯の復活の契機となっています。
 相撲の式守家七代にして茶人、粋の人であった式守蝸牛とともに東京での各流派合同の茶会を創始したほか、明治神宮への献茶なども行っています。また、戦後には東京茶道会、東茶会などの組織に積極的に参加し、茶の湯の振興に勤めました。