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「小絲源太郎」
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小絲源太郎

小絲源太郎は、東京下谷区(現東京都台東区)の老舗料理屋「揚出し」の長男に生まれました。本名は小糸源太郎。洋画家。17歳のときに藤島武二の絵に魅せられて、画家になろうと思ったそうです。東京美術学校金工科卒(現東京芸術大学)西洋学科中退。学生のときから文展、光風会展に出品。最初は印象主義でありましたが、暗い細密描写に変わって静物画を中心に描いていました。1930年から2年続けて帝展で特選になり、後、審査員になります。画風は次第に明るくなって、日展にも出品を続けました。日本芸術院会員にもなり、文化勲章も受けました。金沢美術工芸大学教授、東京芸術大学教授を務めました。90歳で亡くなるまで、日本洋画壇の中心人物でした。

日本の地に根ざした表現に確固たる地位を築いた

小絲源太郎は結構熱しやすい人だったのかもしれない。彼が1918年第12回文展初日に誤解からか、自作を破る事件を起こしたとあります。文展に出品する絵をいくら腹が立ったからと、産みの苦しみの末に生んだ子供のような作品を破るとは、なかなか普通ではできません。そして、1925年までの間、活動すら自粛したそうです。なんと、あれだけ没頭した絵を休止に近い形で自粛するとは、大変な決断だと思います。そして、この時代の洋画家たちが1度はヨーロッパに憧れ、勉強するために留学することが多い中で、小絲源太郎は日本で絵を描くことにこだわり続けました。しかし、俳句の達人でもある小絲源太郎は、日本の季節感に魅せられて、詩情にあふれた日本人だけにしか描くことのできない作品を残したことによっていまだに高い評価を得ています。新しいスタイルの画風や芸術運動が続々と日本に押し寄せている中に、日本の地に根ざした油絵の表現に円熟味のある画風を記した点は独自性があり、確固たる地位を築いた小絲源太郎の真髄であります。特に、1953年に描かれた「春雪」は、田園調布駅前の並木道を描いた作品ですが、藤島武二の考え方を継承しています。情緒的な日本の風土や風物を見事に表現した作品であると言えます。