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「掛軸 荒木寛畝」
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掛軸 荒木寛畝

荒木寛畝

掛軸画家 荒木寛畝は、1831年に生まれた日本画家です。伝統的である花鳥画に洋画の技法を取り込む、独特の作風で有名になり、日本画界の画壇として活躍した人物です。江戸・芝に生まれた荒木寛畝は、9歳という幼さで谷文晁派の荒木寛快に入門しており、その後の22歳の時に氏の養嗣子となったと、伝えられています。画の基礎は、師である寛快に学び、その才能に磨きをかけていきます。結果的に、1856年に山内容堂に認められることとなり、土佐藩の絵師として活躍します。しかし、その後の1872年、ウィーン万博博覧会で「菊花図」を受賞したことがきっかけで、海外にも興味を持ち出します。その、受賞の年、山内容堂がこの世を去ったあと、作風を一気に洋画に転校させるという大胆な行動に出ます。川上冬崖に学び、もともと才能は豊かである荒木寛畝だけに、すぐに頭角を現します。実力を着けて行くと、荒木寛畝、五姓田芳柳、高橋由一と油絵3名家と称されるようにもなりました。しかし、油絵を極めて言った荒木寛畝は、その後に再び日本画の転向。しかし、すでに日本画家としても名を成している同氏だけあり、次の作品には以前の荒木寛畝のような、保守的なところは見当たりません。南北合派に洋画の技術を混合させて、全く新しい次元の花鳥画を描き出したのです。自らの作風を手に入れることとなった荒木寛畝は、この転向を機に数々の賞を受賞していくこととなります。シカゴにパリ、セントルイス万国博覧会の展覧会での受賞をしており、国内だけでなく世界的に著名な画家となったのです。さらに、荒木寛畝は美術界の発展にも多数貢献しています。1887設立日本美術協会では、非常に重要な地位を確立し、1898東京美術学校教授や帝室技芸員での活動。英国ロイヤル・ソサェティ・オブ・アーツ会員という名誉から、文展の第一回の審査員としての活躍。多数の場所で、荒木寛畝の名を轟かして行ったのです。今の日本画界は彼無しには、確実に成長はありませんでした。日本が忘れてはならない、非常に大切な芸術家こそ荒木寛畝なのです。