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「清水登之」
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清水登之
1887年、洋画・清水登之は、現在の栃木県で生まれました。陸軍士官学校への進学を志し、東京の成城高校へ進学しますが、受験に失敗してしまいます。そして失意の清水は、19歳のとき、単身アメリカに渡ります。アメリカに渡る当初から、将来的にはフランスに渡りたいという考えを持っていたようです。アメリカに移住してしばらくは、西海岸にあるシアトルで肉体労働に従事する傍ら、美術学校にも通いました。清水が通ったのはアカデミックな傾向のあるオランダ人画家、フォッコ・タダマの画塾で、その画塾には、のちの洋画家、田中保、石垣栄太郎も通っていたようです。その後、1917年にニューヨークに移った清水は、アート・スチューデンツ・リーグでジョン・スローンに師事します。アート・スチューデンツ・リーグでの仲間たちとの交流、師の指導によって、画家としての技術的な素養だけでなく、表現者としての「哲学」を作り上げていきました。1921年のアメリカン・ペインティング・アンドスカルプチュア展(アメリカ絵画彫刻展)では、外国人であることを理由に受賞を取り消されるという不運にも見舞われてしまいます。不幸中の幸いとでも言うのか、この一件は清水の知名度を飛躍的に高めることになりました。また、清水は、終生アメリカの市民権取得を熱望していましたが、とうとうその願いは叶うことはありませんでした。1924年には、家族でフランス・パリに移住しました。パリでは、サロン・ドートンヌで入選するという栄誉に輝きます。キュビスムをはじめとする新しい時代の絵画に刺激を受けながら、物語性豊かな絵画表現を、ますます発展させていったのがこの時期です。1927年に帰国した後は、独立美術協会の設立に参加して、同会の中心メンバーとして活躍を続けました。この時期から二科展への出品を始め、第17回二科展では、「地に憩ふ」で二科賞を受賞しました。1945年に、現在の栃木県にある生家に疎開しますが、6月に愛する息子の戦死の知らせを受けて、非常に大きなショックを受けてしまいます。失意の清水は、その年の12月7日、58歳の短い生涯を終えました。