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「久田家[四世]_宗也_不及斎」
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久田家[四世]_宗也_不及斎
先代宗全の代から千家との関係をますます深めた久田家で、対外的にも千家とともに活動をするようになったのが四世の久田宗也です。初期の久田家の記録の多くが焼失していますが、千家側の記録、千家にまつわる他の記録の中で宗也の名前が散見されることで、その活動の輪郭が分かっています。
先代宗全には三人の子供がいましたが、その長男は早くから表千家に養子入りしており、あとの二人は女子でした。このため、宗全の弟の市三郎の子が久田家後嗣となりました。最初は弥二郎を名乗り、長じて宗也、不及斎と名乗るようになります。茶の湯は、表千家に養子入りした宗全の長男、後の覚々斎について学んだとされていますが、三歳という年齢差から考えると共に学んだと見るのが正しいでしょう。 覚々斎とは従兄弟の間柄ですが、大変仲も良かったようです。
久田家に伝わるのは「不肖坊」の銘の赤茶碗です。平茶碗風であり、朴訥とした雰囲気に侘びをよく漂わせている名品です。牧渓の書画を持っていたという記録も残されていることから、審美眼には特に優れた人物であったのかもしれません。
先代宗全には三人の子供がいましたが、その長男は早くから表千家に養子入りしており、あとの二人は女子でした。このため、宗全の弟の市三郎の子が久田家後嗣となりました。最初は弥二郎を名乗り、長じて宗也、不及斎と名乗るようになります。茶の湯は、表千家に養子入りした宗全の長男、後の覚々斎について学んだとされていますが、三歳という年齢差から考えると共に学んだと見るのが正しいでしょう。 覚々斎とは従兄弟の間柄ですが、大変仲も良かったようです。
審美眼は特に優れた人物であった不及斎
覚々斎は将軍職に着く前の紀州公、吉宗と親交があり、後の茶の湯の普及に多いに役立ちますが、町人文化が成長を遂げる時期で、覚々斎もまた各地の茶席に足しげく通っていました。 この覚々斎の活動に宗也も積極的に関わっていたようです。はっきりと記録に残っているのは、公家茶道の第一人者であった近衛家熙との交流です。豫樂院とも号し、多くの茶席を設け侘び茶人との交流を楽しんだ家熙ですが、その日常を記した『槐記』(山科道安の手になる日記)に、宗也の名前が散見されるのです。これは覚々斎の代わりを務めたとされていますが、正月には特に近衛家に参上している記録があることから、理由があって招聘されたこともあったのかもしれません。このほか、大阪、堺での茶席にはよく加わっていたという記録も残されています。久田家に伝わるのは「不肖坊」の銘の赤茶碗です。平茶碗風であり、朴訥とした雰囲気に侘びをよく漂わせている名品です。牧渓の書画を持っていたという記録も残されていることから、審美眼には特に優れた人物であったのかもしれません。