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「加守田章二」
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加守田章二

加守田章二 曲線彫文壷

大阪府岸和田市に生まれた工芸品買取 加守田章二は、若き日に京都市立美術大学工芸科で、人間国宝・富本憲吉に師事しました。1956年の卒業後、茨城県日立市の大甕陶苑の研修生となり、59年栃木県益子町に築窯、作陶家としてデビューします。 伝統に学ぶもとらわれず、かといって前衛とも異なる、器をひとつの生命として扱う第三の道をたゆまず歩む中、次第に認められ、多くの賞を受賞。67年には高村光太郎賞造型部門に陶芸家として初めて選出、一躍世の脚光を浴びます。 けれどもその後、まるで名声から逃れるように69年、岩手県遠野に窯をつくり、山ごもりにも似た厳しい環境に身をおきました。関西から北関東、そして東北というみちのくへの移動が物語るのも、また焼き物に決して向いているとはいえない遠野の土を用いたのも、文化の洗練された西ではなく、人間と自然がまだ一体であった上古の清らかさの残る東方への憧れ、鮭の遡上にも似た根源の美への巡歴といえるでしょう。 1970年代、加守田はミロのビーナスなどギリシャ彫刻がまとう垂れ落ちるひだ(ドレープ)をとり入れた「曲線彩彫文」、また縄文土器の呪術性が色濃く漂う「彩陶壺」など大胆で造形性に富んだ器を世に送り出し、天才の名をほしいままにします。個展の初日で作品が完売するという伝説が生まれたのもこの頃のことでした。 80年頃から健康をそこない、83年49歳の若さで惜しまれながら没しましたが、陶芸を伝統美でも用の美でも前衛美でもなく、むしろそのすべての根源である生命にさかのぼって再生させようとする求道者的な生涯は今なお、後進に強い刺激をあたえてつづけています。「しかし私の仕事は陶器の本道から完全にはずれています/私の仕事は陶器を作るのではなく陶器を利用しているのです/私の作品は外見は陶器の形をしていますが中身は別のものです」。1971年の彼の言葉には自己否定とは裏腹の強い自負がみなぎっています。