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「宗偏流[五世]_靖学宗俊」
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宗偏流[五世]_靖学宗俊
五世宗俊、茶号を力囲斎と称しました。先代宗也の実子。46歳という若さでこの世を去っていますが、書画に長け、多くの作品を各地に残した優れた茶人であったと伝えられています。宗俊について語る際には、力囲斎の号の流れを押さえておきたいところです。
力囲斎の号は、開祖宗偏が宗旦から授かり、宗偏が小笠原家を致仕するに当たり、弟子であった小笠原家家中の相良宗因に伝授。相良は、三世宗円のときにこの力囲斎の号を山田家に返還しました。しかし、四世宗也が、神谷松見から自分自身の号であった「陸安斎」の号を贈られると、その返礼として力囲斎の号を贈り、再び山田家外部に流出します。ちなみに神谷家は松見の子の代で途絶えており、松見の娘が嫁入りした滝沢家にこの号が伝わったようです。そして、松見の孫に当たる滝沢佐太郎が、宗俊と元々の号であった陸安斎、力囲斎の号を互いに返還しあったと伝えられています。こうした経緯は文書として残っていないため、詳しいことは分かっていませんが、おおよそこうした流れで宗俊は力囲斎を名乗るようになりました。ちなみに、宗俊の死後、再び力囲斎の号は外部に流出しています。
宗俊は江戸勤めよりは、藩の国許で過ごすことが多く、宗俊のときに小笠原藩が肥前唐津に移封となった際には、これに付き従い唐津に留まることが多くなりました。ここで、小笠原長昌、長泰、長会の三代の主君に仕えました。現在でも唐津では宗偏流が盛んですがこれも宗俊の尽力によるものとされ、五世宗俊の名は唐津宗偏流の源流と目されています。また、小笠原家内だけでなく、広く門人を受け入れ、高弟に長州藩の三好内蔵、竹林軒晴学こと磯野宗弥などがいます。宗俊の書画は非常に端麗でありながらも、賛などで見る限り、特に書には雄渾さも見られます。開祖宗偏の書もまた闊達でかつ雄渾であり、その流れを汲んでいます。
宗俊の死後、一時、その娘婿であった磯野宗弥が養子として小笠原家茶頭の地位を引き継ぎます。しかし、理由が伝わっていませんが、この宗弥が茶頭職を解任、山田家も廃嫡されるという事態が勃発しています。
力囲斎の号は、開祖宗偏が宗旦から授かり、宗偏が小笠原家を致仕するに当たり、弟子であった小笠原家家中の相良宗因に伝授。相良は、三世宗円のときにこの力囲斎の号を山田家に返還しました。しかし、四世宗也が、神谷松見から自分自身の号であった「陸安斎」の号を贈られると、その返礼として力囲斎の号を贈り、再び山田家外部に流出します。ちなみに神谷家は松見の子の代で途絶えており、松見の娘が嫁入りした滝沢家にこの号が伝わったようです。そして、松見の孫に当たる滝沢佐太郎が、宗俊と元々の号であった陸安斎、力囲斎の号を互いに返還しあったと伝えられています。こうした経緯は文書として残っていないため、詳しいことは分かっていませんが、おおよそこうした流れで宗俊は力囲斎を名乗るようになりました。ちなみに、宗俊の死後、再び力囲斎の号は外部に流出しています。
宗俊は江戸勤めよりは、藩の国許で過ごすことが多く、宗俊のときに小笠原藩が肥前唐津に移封となった際には、これに付き従い唐津に留まることが多くなりました。ここで、小笠原長昌、長泰、長会の三代の主君に仕えました。現在でも唐津では宗偏流が盛んですがこれも宗俊の尽力によるものとされ、五世宗俊の名は唐津宗偏流の源流と目されています。また、小笠原家内だけでなく、広く門人を受け入れ、高弟に長州藩の三好内蔵、竹林軒晴学こと磯野宗弥などがいます。宗俊の書画は非常に端麗でありながらも、賛などで見る限り、特に書には雄渾さも見られます。開祖宗偏の書もまた闊達でかつ雄渾であり、その流れを汲んでいます。
宗俊の死後、一時、その娘婿であった磯野宗弥が養子として小笠原家茶頭の地位を引き継ぎます。しかし、理由が伝わっていませんが、この宗弥が茶頭職を解任、山田家も廃嫡されるという事態が勃発しています。