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日本画 岸竹堂
日本画家・岸竹堂は1826年に生まれた日本画家です。彦根市にの代官役寺居孫二郎重信の三男として生まれた岸竹堂の幼少期の名を米吉と言いました。僅か11歳という幼い時分に京都の狩野派であった狩野永岳に入門をしますが、そこで研磨を続けて行く度にその粉本主義であった狩野派の指導法にどうしても馴染めずに悩みます。そして、結果的にその狩野派を辞め、自らのスタイルを見つけ出すために岸派である岸連山に入門をしていきます。水を得た魚のように、自らの芸術を鍛錬に磨き上げてく岸竹堂は師である連山の娘と結婚、そして岸家の養子として迎え入れられるようになります。また、この頃の岸竹堂は二条城などの障壁画を描くことを任されるなど、画家として順風満帆な人生を歩んで行くのです。ところが、そのような生活も長くはありませんでした。幕末になり、世の中は混沌とした時代を迎えます。この混乱期にはとうとう絵師としての生活が成り立たなくなり、生活に困窮し始めてしまいます。さらに不幸は続き、師である連山も死亡してまう上に、禁門の変により家を焼かれてしまい、描き溜めていた写生であったり、模写の画なども全て焼き尽くされてしまいます。絶望の中で生きる気力すら失いかける岸竹堂なのですが、明治時代に入ると生活は徐々に回復の一途をたどり始めます。京都府画学校に教師として出仕することになり、それをキッカケに内国勧業博覧会などへの出品を経て、各展覧会における審査委員としての活躍の場が巡って来るのです。その作品も、狩野派を離れた20代の中旬、岸派への以降による活き活きとしながらも、意欲的に何か斬新な新機軸を打ち出そうとする岸竹堂の芸術に対する意気込みのようなものが、強く感じることができる作品になっているのです。さらには、岸派でありながらも西洋画を取り入れた陰影法、遠近法などを駆使した作品も打ち出し、まさに天才としての片鱗を見せ続けていったのです。数々の苦難を乗り越えて画家としての地位を守り続けた岸竹堂。彼の生き様は深く、そして味わい深い人生であり、今を生きる我々の進むべき道を見出してくれることでしょう。
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