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「武者小路千家[四代]_一翁宗守_似休斎」
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武者小路千家[四代]_一翁宗守_似休斎
武者小路千家では、かつては千利休を始祖とするも初代を千宗旦の次男宗守としていましたが、近年になって改めて利休を初代とし、宗守を流祖として四代目と数えるようになりました。また、諸説ありますが武者小路千家の号でもある茶室「官休庵」は、父宗旦との合作ではなく、宗守の手によるものとされています。
宗守は宗旦の先妻との子でした。当初、千家から、後に千家十職のひとつとなる中村宗哲の家に婿養子に出されました。当時の中村家は武者小路にあり、吉岡姓を名乗っていました。ここで宗守は塗師としての修行を積み、吉岡甚右衛門と呼ばれます。その技は非常に優れたものだったそうですが、千家の兄弟たちの勧めがあり、60歳のころに茶の道に戻りました。吉岡家の家督と身につけた技は後に初代中村宗哲となる八兵衛に譲ります。
そして、茶の湯に戻った宗守は、父宗旦の口添えで讃岐高松藩の松平家の茶頭として出仕するようになりました。その後、10年余りの勤めを致仕し、武者小路に戻って開いた茶室が「官休庵」だったといわれています。名前の由来もさまざまですが士官を辞して休む庵、という説がもっとも有力です。この官休庵を営んだところから正式に武者小路千家が始まりました。
もっとも著名な道具に竹皮炭斗、信楽蓋置などがありますが、いずれも非常に独特です。例えば、信楽蓋置はまたの名を「山の神」といいます。これは三宝(供物を置く台)をかたどった大変珍しいもので、焼き物を焼くときに山の神に供え物をすることからこの形の名がつけられたと言われています。 どこか土臭いところがありながら、清貧な質素さと重々しい風格を持った道具を好んだ宗守は、一時は茶の湯を離れたがために逆に利休の茶を切実に目指したそうです。それは利休に似るという意味の似休斎という法名によく表されています。
宗守は宗旦の先妻との子でした。当初、千家から、後に千家十職のひとつとなる中村宗哲の家に婿養子に出されました。当時の中村家は武者小路にあり、吉岡姓を名乗っていました。ここで宗守は塗師としての修行を積み、吉岡甚右衛門と呼ばれます。その技は非常に優れたものだったそうですが、千家の兄弟たちの勧めがあり、60歳のころに茶の道に戻りました。吉岡家の家督と身につけた技は後に初代中村宗哲となる八兵衛に譲ります。
そして、茶の湯に戻った宗守は、父宗旦の口添えで讃岐高松藩の松平家の茶頭として出仕するようになりました。その後、10年余りの勤めを致仕し、武者小路に戻って開いた茶室が「官休庵」だったといわれています。名前の由来もさまざまですが士官を辞して休む庵、という説がもっとも有力です。この官休庵を営んだところから正式に武者小路千家が始まりました。
似休斎という法名によく表されているその心
塗師としての技術を積んだ後の茶の道だけに、その好みについては伝わるところがあまり多くはありません。しかし非常に気骨のある茶風だったと言われ、道具にもその風情が漂います。もっとも著名な道具に竹皮炭斗、信楽蓋置などがありますが、いずれも非常に独特です。例えば、信楽蓋置はまたの名を「山の神」といいます。これは三宝(供物を置く台)をかたどった大変珍しいもので、焼き物を焼くときに山の神に供え物をすることからこの形の名がつけられたと言われています。 どこか土臭いところがありながら、清貧な質素さと重々しい風格を持った道具を好んだ宗守は、一時は茶の湯を離れたがために逆に利休の茶を切実に目指したそうです。それは利休に似るという意味の似休斎という法名によく表されています。