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「表千家 [八代] 件翁宗左 啐啄斎」
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表千家 [八代] 件翁宗左 啐啄斎

黒樂茶碗

 茶道に新風を吹き込み、表千家を大きく発展させた如心斎は、古流からの反動や反発、自らの葛藤もあって大変心労の多い人生を送ったのか、48歳の若さで夭折します。 その後、未来を大いに嘱望されて継いだのが啐啄斎でした。 父を早くに亡くした啐啄斎は高弟の川上不白、裏千家宗匠の叔父・一橙宗室らの手ほどきを受け、14歳で宗匠を継ぎます。そして同年、元伯宗旦の百回忌の席で湯を催すという大事をなしとげました。その後、50年の長きに渡って表千家を支えていくことになります。 しかし、その当初の30年については記録がほとんど残されていません。啐啄斎45歳のときに京を焼き尽くした天明の大火が不審菴、表千家屋敷にも及び、啐啄斎の初期の活動についての史料が焼失したとも言われています。この大火で多くを失った啐啄斎でしたが、すぐさま精力的に活動を始め、早くも翌年には利休二百回忌の湯を盛大に催します。そのほか如心斎の五十回忌も行うなど、大きな席を催すことが多かったのも、長い代を守った啐啄斎ならではのことだったと言えるでしょう。

好みの幅が広い啐啄斎

 京屋敷の再建の折には二畳の室を作り、60歳を過ぎて隠退するとこの室にこもることが多くなったそうです。この室の作りは利休三代宗旦が好んだもので、このことからも分かるように啐啄斎の好みも古流のものが多く残されています。有名なところでは、手ずから作った赤楽「慈童」があります。これは古流の作法をよく反映しており、静かな侘びを感じさせます。 一方、漆塗りの丸卓、香台を特に好んで作らせ、また写しも多く作られたため、今でも多く目にすることができます。これら漆塗りの道具は、古流の風情の中に凛としたたたずまいを見せるものが多く、啐啄斎の好みの幅の広さを感じさせます。
 宗匠を継ぐと宗左を名乗るのに加え、後嗣は宗員、隠居すると宗旦を名乗る伝統は、この啐啄斎に始まるといわれています。宗旦を名乗り隠居したのち、師とも父とも仰いだ高弟、川上不白が逝去します。そしてその翌年、啐啄斎も静かにこの世を去りました。