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「大樋焼[二代]_長左衛門」
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大樋焼[二代]_長左衛門

左衛門

 裏千家四代仙叟宗室が初めて致仕を願い出て、京と加賀の往復生活を始めた貞享三年(1686年)、大樋焼二代となる長左衛門が誕生しました。仙叟宗室が完全に加賀から去るまでの10年間、恐らく宗室からも茶の湯の薫陶を受けたと言われます。
 しかし、伝世する作品は非常に少なく、どのような茶の湯を好んだのか、記録もないためはっきりしたことは分からず、作風から推察するのも難しいとされています。また、作風自体、非常に初代の影響を強く受けており、印を押さないこともあって、初代と区別が付かない作品も多くあります。伝世する作品が少ないのはそのためとも言われます。二代の作といわれるものは、いずれも初代の作風を良く受け継ぎ、素朴ですが力強く伸びやかさを感じさせます。また、初代と仙叟宗室が好んだ渦文、波文を使った作品も手がけています。ちなみに、仙叟宗室と初代が渦文や海老など水にちなんだ意匠を好んだのは、仙叟宗室の金沢屋敷の前に浅野川が流れていたからだという説があります。日々前にかかる稲荷橋に立ち、京の今日庵の前を流れる小川に思いを馳せたからだったと。
 初代の影響の強い二代長左衛門でしたが、有名な「金城霊沢」の銘を持つ飴釉茶碗のように、苦心して初代の影響を抜け出そうとしたことを感じさせる作品も残されています。全体に薄手で高台も薄く、面取り風の箆目で削り取られた胴は、赤味の勝る飴釉と交じり合い、燃え立つ炎のようですらあります。ちなみにこうした縦の面取り風の箆使いは、楽家では四代一入でわずかに見られ、九代了入をして初めて本格的に使うようになっています。偉大なる初代の事跡を超えよう、と同時に同じく越えがたい壁である楽家に勝ろうとする思いが、こうした独特の技法を生み出したのかもしれません。 前田家六代吉徳、七代宗辰の2代に仕えましたが、あくまでも焼物師としてで、仕官という形にはならなかったそうです。隠居してからは芳土庵を名乗り、父と同様の長命で87歳にこの世を去りました。