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「宗偏流[六世]_義明宗学」
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宗偏流[六世]_義明宗学

宗偏流[六世]_義明宗学

 宗偏流六世を継いだ宗学ですが、代を継ぐに当たり紆余曲折ありました。五世宗俊逝去の折には、その娘婿であった竹林軒・磯野宗弥が一旦代を継いでいるのですが、理由は今に伝わっていないものの、茶頭職を解任、山田家も廃嫡となっています。
 しかし、家元の家流が途絶えることを惜しんだ小笠原家の配慮により、宗偏流時習軒派の六代・吉田宗意の次男(養子)であった義明宗学を養子として迎え入れ、正式な六世として認めることとなりました。吉田宗意は奥州一関藩田村家に仕えており、宗学を山田家に出したため、改めて別に娘婿の形で養子を取っています。これが後の時習軒七代・宗賀です。宗学が一関から唐津に渡ったのは、宗俊存命中という説もあります。
 時習軒派も宗偏の教えを篤実に守る茶風であり、あるいは正統の茶の湯を学ぶために唐津で宗俊に弟子入りしていたのかもしれません。また、宗学の代継ぎの時期についても異説あり、山田家断絶の期間、十数年の後に一関藩より宗学が招かれたとも言われています。いずれにしても、五世後の竹林軒宗弥のいきさつが正史には認められていないこともあり、特に史料に欠ける時期となっています。
 主君小笠原長行は、後に老中職まで上り詰め、唐津では明山公の名で知られる名君となっていますが、彼に茶の湯を通して名君たる薫陶を授けたのも宗学であったと伝えられています。また、先代宗俊と並び唐津で茶の湯の普及に尽力した宗匠として、今でも唐津で深く敬愛されています。近隣の諸藩からも多くの門弟が集まり、現在の佐賀内外の茶の湯の基礎を築き上げました。時代は幕末の動乱に差し掛かっていましたが、主君小笠原長行がさらに出世を遂げ、将軍の名代も勤める奏者番の役職についた翌年、跡継ぎのないままこの世を去りました。後をその妻・宗寿が継ぎ、時代は動乱の真っ只中に突入していきます。