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「梅原龍三郎(うめはらりゅうざぶろう)」
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梅原龍三郎(うめはらりゅうざぶろう)

 大正・昭和期の油彩画の巨匠。安井曾太郎とともに昭和の洋画壇をリードした。 1888年(明治21年)、京都の染物問屋、「染呉服悉皆屋」を営む父梅原長兵衛と母かめの末子として生まれた。のちに「梅原芸術は絹の友禅」とその作風を生家の家業にたとえられる。梅原は15歳で画家を志し、府立二中を退学すると、伊藤快彦、浅井忠のもとで絵画を学んだが、梅原の人生を決定づけたのはピエール=オーギュスト・ルノワールとの出会いである。1908年(明治41年)に渡仏し、パリのリュクサンブール美術館で初めてルノワールの作品を目にした梅原はこう言ったという。 「そう、この画こそ私が求めて居た、夢見ていた、そして自分が成したい絵である。かかる絵を見ることが出来てこそ、かく遠く海を越えてここに来た価値があった」 。豊穣な色彩のとりこになった梅原は、モンマルトルのルノワールのアトリエを訪れては批評を受けた。このときに、ルノワールの血は梅原に溶け込んだといってもよいだろう。 こうして元々の恵まれた天分が花開き始めた。

天衣無縫な発想は豪放な筆致を生み、独特の画風を確立

 初期の作品は、やわらかなタッチで香気を放つものが多かったが、次第に自在の画風は力強さを帯びてゆく。ずっしりした量感と強靭な精神力をあらわすゴツゴツした太い線は、あたかも腕力で山をもねじ伏せようとする迫力が感じられる。画の中に「鼓動」を感じさせる筆致が梅原の極意だ。色彩の豪華さは失わなかったが、ルノワールからスタートした梅原も昭和期になると東洋美術の浮世絵や大津絵、さらに中国の陶器などのエッセンスを取り込み、洋の東西をミックスさせることを試みる。天衣無縫な発想は豪放な筆致を生み、独特の画風を確立していく。 代表作は「桜島」「裸婦扇」「薔薇」「紫禁城」「富士山」など。 東京国立近代美術館で梅原が寄贈した作品が鉄パイプで襲撃される事件が起こったことがある。画学生の犯行だったが、梅原の作品には見る者に「愛憎」を感じさせずにはいられない強烈な美感覚がある。晩年も外遊を重ね、意欲的に制作に取り組んだ。 1986年、肺炎による心不全のため東京の慶応病院で死去。97歳だった。