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難波田龍起

難波田龍起

難波田龍起は1905年に旭川に生まれた日本の洋画家です。北海道は旭川に生まれ、その後直ぐに東京二移り住んでいます。早稲田大学に入学して間もなく関東大震災が訪れ、世は混乱をきわめていましたが、難波田龍起はここで運命的な出会いを果たします。その時の夜警警備の際、高村光太郎と出会いアトリエに行き来する仲となっているのです。高村光太郎の崇拝しているゴッホに難波田龍起も感銘っを受け、早稲田大学は中退井、太平洋洋画会研究所で石膏デザインなどを学んでいます。しかし、なかなか自分のものに出来なかった難波田龍起は研究所を辞め。川島理一郎の主催する絵画研究所の金曜会に入会しています。ここで、ルドンに感銘を受け傾倒した難波田は1929年に第4回国画会展に入選を果たします。これをきっかけに彼の画家人生が始まります。直線的な建物を後世する描写、生き物を独特な曲線で描くその写実性。どれをとっても彼の描く作品は人々の心に突き刺さり、忘れられない感動を得ることができるのです。彼の紆余曲折した画家人生を、全て表現して描かれたこの作品はまさに奇跡という他ないのではないでしょうか。そんな、難波田龍起の作品を語る上で木版を作成した「両面刷り」などの技法を活かした作品も注目です。1962年に発表した「交響曲1962」は、まさに命の叫びを表現したような力強く魂のこもった作品になっています。グレーと白を基調に中心をめがけ、赤や黒のアバンギャルドな構図で描かれるその表現は見ているだけで、命の鼓動を感じるのです。そんな難波田龍起は現役の画家として活躍するだけでなく、教師としても様々な芸術の分野に貢献しています。女子文化大学室蘭短期大学教授を歴任し、自らの信じる芸術を多く之学生に伝え続けているのです。画家としてだけでなく、その有志と人柄も大きく評価を受け、1996年には文化功労者としての名誉を受けています。数々の表彰を受け、常に時代の最先端を見据えてきた難波田龍起。彼の残した功績や芸術への志しは永遠に語り継がれて行くことでしょう。