平櫛田中の福聚大黒天尊像を買取させていただきました
「平櫛田中」について
平櫛(ひらくし)田中(でんちゅう)は1872年(明治5年)に岡山県に生まれました。明治・大正・昭和と3つの時代を生き、満107歳で生涯を終えるまで現役で活動し続けた彫刻家・木彫作家です。明治時代の木彫低迷期を乗り越え近代日本彫刻の第一人者として活躍しました。広辞苑に載っている実在の人物の中で最も長命であるとしても有名です。
田中が生まれた明治初期は日本の転換期でした。
1868年に王政復古がなされ江戸幕府が倒れると、一気に西洋技術や西洋的思考が流入しました。日本美術の世界にも大きな影響を与え、廃仏毀釈運動により日本古来の伝統であった木彫界は打撃を受けます。木彫の担い手であった仏師や宮彫師たちが仕事をなくし、象牙彫りなどで生活をつなぐようになりました。
田中が木彫の世界に飛び込んだのは1893年(明治26年)です。木彫界が完全に下火になっていた時代に、大阪の人形師・中谷省古に木彫の基礎を学びます。明治30年に上京し、翌年に高村光雲に師事します。同じころ臨済宗の西山禾山老師に禅の教えを受け、その影響が作品にも現れていきます。
「活人箭」や「尋牛」は仏教的テーマで制作した中でも代表的なものであり、特に「活人箭」は岡倉天心の推奨を受ける、初期作品の代表作となりました。
明治40年に岡倉天心が設立した日本彫刻会に所属すると西洋の写実主義を取り入れるためにモデルを用いた塑像作りを開始、西洋彫刻と日本伝統の木彫の技術的な融合を目指しました。人体の構造や筋肉の付き方を徹底して観察し、高い表現力で再現。写実的でまるで生きているかのような彫刻を生み出しました。リアルで写実的な彫刻作品が有名な田中ですが、高い写実表現力を土台に大胆にデフォルメした愛嬌ある作品も数多く制作しています。
「福聚大黒天尊像」は田中の作品の中でも最も人気が高く、よく制作されたテーマのひとつです。福々しく丸い体つきに、体と同じくらい大きな顔で柔和な表情を浮かべており、まさに福の神といった風格があります。
ありがたい縁起物として人気の大黒様ですが、田中は福聚大黒天尊像の箱にこんな事を書いています。「このつちは たからうちだすつちならで のらくらものの あたまうつつち」―――大黒天が握っているのは打ち出の小槌ではなく怠け者の頭をたたく為の槌だ、という意味です。
木彫低迷期で作品が売れないなかコツコツと技術を磨き続け50代を過ぎてからようやく認められ始めた田中にとって、大黒天が持っているのは他力本願な「打ち出の小槌」ではなく、怠けてしまいそうになる自分を戒める為の小槌のようです。1920年作成の「転生」も同様に自戒の念が込められた作品です。転生は鬼が口から人を吐き出している像で、田中が幼い頃に聞いた「地獄の鬼も生ぬるい人間は食べない。食べてもすぐ吐き出してしまう」という言い伝えが基になっています。
田中の創作意欲は生涯衰えることなく、86歳のときに大作「鏡獅子」を20年越しに完成させます。80歳を過ぎてから本格的に書も始め、田中語録と呼ばれる名言を残しています。有名なのが「六十七十ははなたれこぞう おとこざかりは百から百から」です。この言葉通り田中は100歳で30年分の木材を購入します。木彫に一生を捧げた平櫛田中の心意気をうかがい知ることが出来ます。
査定について
今回の査定で一番大きなポイントは、状態が良かったことです。
作家さんが如何に有名で、それが本物だったとしても状態が良くなければ高額査定は見込めません。彫刻の場合は、傷、割れ、かけなどが査定の対象になります。また、直しがある場合は査定に響く可能性が高いです
また箱付きであること、そちらに作家本人のサインがあることが重要です。
彫刻の売却をお考えの際は、一度状態やお箱の有無を確認をしてみてください。
さいごに
今回買い取らせていただいた商品は、上記の理由も重なり査定を頑張らせていただいた商品でした。このような「八光堂」だからできる高額買取は多数ございます。思い入れのある商品を、高額査定することに自信があります。
ご売却をお考えの方は、ぜひ八光堂・大阪本店をご検討ください。