山下清のペン画を買取させて頂きました
自分に正直に生きる 山下清
“日本全国を放浪した、ちぎり絵の天才芸術家”-。山下清といえば数々のメディアで取り上げられ、ほのぼのとした印象の有名な画家として、広く認知されています。ですが、一方ではメディア作品にはない、実際の画家としての人生がありました。放浪をする経緯や時代背景などを紐解きつつ、今回は画家「山下清」についてクローズアップいたします。
大正11年、東京の浅草に山下清は生まれました。翌年、東京大震災に遭い、親の故郷である新潟への転居、3歳で重い消化不良にる高熱にかかり、軽い言語障害と知的障害を後遺症に患い、それによる小学校でのいじめ被害、また家庭環境も苦難が多く、10歳で父が他界、母は再婚するも2年後に離婚など過酷な状況を過ごしましたが、その後、養護学校の「八幡学園」へ入居した事で人生が開かれます。
学園では先生にも恵まれ、「ちぎり絵細工」に出会った清は、虫や花など自然物や静物の作品を制作しました。細かくちぎる作業は几帳面だったといわれる彼の緻密さが発揮され、それに目を留めた学園内の顧問医、式場隆三郎による指導を受けながら日々制作を究めていきました。
清の作品をきっかけに八幡学園の園児のちぎり絵は次第に注目され、早稲田大学講師に誘われ展覧会を開催、その後東京と大阪で清の個展が催されると、たちまちメディアで注目を浴び、一般の人々に絶賛されるようになりました。
そんな折の昭和15年、18歳の山下清はある日突然姿をくらまします。
時期は第二次世界大戦の中、元々兵隊嫌いだった清は徴兵検査を逃れるべく放浪生活を始め、後ほど学校側に発見され徴兵検査で兵役免除となってから、改めて放浪の旅へ―、という15年に渡る放浪生活をしました。
画家、山下清の代名詞ともいえる放浪ですが、彼にとっては絵を描く為の目的ではありませんでした。何かをしたいが為ではなく、”何もしない時間”を求める。それ故の旅だったそうです。
その為、旅先で作品を作る事はなく、清の作品は学校や家に戻ってきた時に期間が何年も経ってから制作したものです。所謂サヴァン症候群とも呼ばれる、人並み外れた記憶力の持ち主でした。ちなみに”タンクトップにリュック姿”は逃亡放浪生活の最後の2年のみで、普段は服装に気を遣う人だったそうです。
山下清の作品といえば、子供の頃の大きくちぎった貼り絵から始まり、熟達すると一見して手でちぎった色紙とは気付かない程の緻密な描写になります。また、清にとって思い入れの深い花火を描いた代表作「長岡の花火」などで花火の細い表現で作った”こより”など、独自に展開した技法もあります。
放浪後、「日本のゴッホ」「放浪の天才画家」とメディアで大変有名になってからは外に出てもすぐに見つかってしまう状況になり、それ以後は芸術家として活動に取り組んでいきました。
新たな活動では、ペン画、油彩、水彩、陶器の絵付けなど様々なジャンルの作品も制作し、また、自発的にヨーロッパ旅行へ出向き、現地スケッチを元に熟達した風景画を制作し、帰国後は体調悪化のなか大作「東海道五十三次」に取り組み、49歳で息を引き取るまでの遺作となりました。
”あるがまま”を見つめ生きてきた芸術家、山下清は、時代に囚われず、うそや過剰の無い真っ直ぐな表現やその生き様が人々の心を捕らえ、戦後日本の中から一大ブームを起こすほどの人気作家です。その為、今日では贋作や複製品なども多く出回っている状況です。山下清の作品をお持ちの際は、是非お気軽に八光堂へご相談下さい。
査定について
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