金重陶陽 備前焼 花瓶を買取いたしました!
「金重陶陽」について
備前焼といえば真っ先に思い浮かべる人物といえば金重陶陽さんではないでしょうか。江戸中期までは確固たる地位を持っていた備前焼ですが、時代と共に忘れ去られようとしていたのを現代に蘇らせた金重陶陽。彼の作品や技法を交えながらお話していこうと思います。
金重陶陽の歩み
備前焼の人間国宝として名高い金重陶陽ですが、もともとは置物などの細工物をつくる細工物師だったということをご存知でしょうか。父の楳陽(ばいよう)のもとで細工物について学び、15歳~37歳までは細工物師の名手として活躍されていました。
その後、自らの生まれ故郷のやきものである備前を再現するための研究に励むようになり陶土・窯の構造・窯詰め・焼成法の創意工夫をしていきます。また、表千家で茶道について学びお茶の世界や陶器についての知識や理解を深めていったのです。
備前焼の発展
そんな中、荒川豊三が志野の陶片を発見し、桃山期の志野が瀬戸ではなく美濃で焼かれたことが証明されました。このころから陶芸家や収集家は桃山陶への関心を強めていきます。
金重陶陽はそのころには、桃山の土の再現ができていたといわれており、荒川豊三の発見を機に彼の名と作品が世に知れ渡っていったのです。
また、金重陶陽は幅広い交流をもっていたことでも有名です。「からひね会」という桃山陶の技法の研究や、語り合う場を設ける会を設立し、メンバーは、川喜田半泥子(かわきた はんでいし)、荒川豊蔵、萩の三輪休和(みわ きゅうわ:十代 三輪休雪)というそうそうたる顔ぶれです。それによってさらに、桃山陶への造詣を深めていくことになります。
指導者としての才
金重陶陽は備前らしい落ち着いた雰囲気の作品を生み出しながら、現代的な作風のものも生み出した優秀な陶工でありました。しかし、それに劣らず多くの弟子を持ち、次々と人間国宝となるような人を育てる指導者としての才もすばらしい人物でした。
彼の弟である素山(そざん)は兄である陶陽の助手をし、陰ながら支える一方で自らも作品を作り、昭和58年に岡山県重要無形文化財保持者としての認定を受けます。また、息子でもある、道明(みちあき)も同じように平成2年に認定を受けます。
金重陶陽亡き後も、彼が再現した桃山陶の備前が受け継がれていっているのです。
さいごに
失われつつあった桃山備前を現代に再現し、近代の備前の基盤を築いた金重陶陽は「備前焼中興の祖」として今なお、多くの陶芸家たちに仰がれる存在であります。今では、当たり前のように多くの陶芸家たちが使っている伝道轆轤を使わずに最後まで手轆轤にこだわって作品を手がけていたということにも、彼の生き様や誇りが垣間見られますね。
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