美と食の巨人・北大路魯山人
美と食の巨人・北大路魯山人
北大路魯山人は書家・篆刻家・画家・美食家・料理家・陶芸家などマルチに活動し、どの分野でもトップクラスの評価を受けた芸術家です。
魯山人の本名は房次郎といい、幼少期は恵まれた生活を送ったとは言いがたく、他家へ預けられ実の家族を知らずに育ちます。魯山人の人柄は横柄で我侭、非常に毒舌家で辛辣だったと言われますが幼少期の経験がそうさせたのかもしれません。
芸術との出会い
魯山人は明治16年(1883年)に京都の上賀茂神社の社家、北大路家の次男として生まれました。しかし魯山人の誕生前に父は既に亡く、生後すぐに他家に預けられると6歳で木版業を営む福田家に養子に入り落ち着くまで家を転々としていました。
福田家に入ってからは炊事を行い、そこで料理の基礎を身に着けました。
魯山人は長じて料理人・美食家として大成することになりますが、魯山人少年は初め日本画を志します。12歳頃に見た竹内栖鳳の絵に憧れて画学校への入学を希望しますが、養家の経済事情により断念します。
それでも画家への道を諦められず、自力で画材を調達しようと養父の木版の仕事を手伝い、15歳で当時の京都で流行していた「一字書き」に応募すると初応募で一等を受賞します。その賞金で画材を手に入れ、我流で絵を描き始めました。
もとは画家になる為にはじめた木版と書でしたが、木版は後に始める篆刻の基礎となり、書も極めやがて本業とします。
陶芸との出会い
画家を目指していた魯山人ですが京都で「一字書き」の名人として有名になり、書家になろうと明治36年に20歳で上京します。誰かの下に付く事もなく、東京で子ども達を相手に書道教室を開き生計を立てていました。上京からわずか1年後の明治37年日本美術協会主催の展覧会に「千文字」を出品し、褒状一等二席に輝きます。21歳の若き天才書道家が現れたと話題になり、書道家として成功した魯山人は収入を趣味の骨董蒐集に使います。骨董趣味が高じ36歳のときには古美術店・大雅堂芸術店の共同経営まで始めます。
やがて魯山人はこの古美術店で販売している陶磁器に自分で作った料理を盛り付けて常連客に振る舞うようになります。
美食倶楽部の設立
魯山人の料理はすぐに評判となり39歳で店の2階に会員制食堂「美食倶楽部」を設立します。しかし人気のすぐに手狭となり43歳で会員制高級料亭「星岡茶寮」を開き、顧問兼料理長となった魯山人は料理と共に食器へも並々ならぬこだわりを見せます。
最高の食材を使い最高の料理を作り最高の器に盛り付ける事が理想の魯山人は「料理を活かす器、器を活かす料理」「器は料理の着物」と日ごろから言っており、市販の器では満足できなくなり自らの理想のため窯を開き作陶をはじめます。
自分の美意識や料理に合うものなら何でも取り入れ、備前・志乃・織部と多様な作品を生み出しました。
特定の師匠はいませんでしたが自分で集めた名品陶磁器から学び、日本らしい焼き物の伝統美をベースに大胆にオリジナリティを出した魯山人の作品は、現在でも人気があります。
魯山人の焼き物の魅力の1つに絵付けがあります。一流の書家としての腕を持ち、日本画の分野でも頭角を現していた魯山人の手による絵付けを施された陶磁器は現在でも多くのコレクターに愛されています。カラフルで色合いや筆運びが秀逸な作品や一見すると簡単な構図、しかし計算し尽された独特の「間」が魅力的な作品など晩年まで多彩な作品を作り続け日本美術界に大きな足跡を遺しました。
さいごに
これだけ著名な作家ですので、それだけに贋作は存在してしまいます。私達八光堂は買取に際しまして細心の注意を払い、査定させて頂いております。その為、査定に時間がかかることもありますが、来店いただいたお客様にはなるべくその場でお値段のご提示をさせて頂いておりますのでお気軽にお問合せ、ご来店お待ちしております。