梅原龍三郎を買取致しました!
梅原龍三郎とルノワール
蒸し暑かった京都の夏もようやく過ごしやすくなってきました。
秋到来ですね!
秋といえば、食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋、芸術の秋、勉強の秋などなど…。
皆様にとっての○○の秋は様々だと思われますが、食べて寝る、本を読みながら知らぬ間に寝るが通例な私は、毎年この時期にサイズアップしております。
何かしら身体を動かす機会を作らないといけないと思う今日この頃。
3日坊主では終わらないように自分に言い聞かせ、ジョギングを始めました。
そのおかげで季節を肌で感じられるようになっております。
朝晩は少し肌寒く感じるときもあります。
おでかけの際には薄手の上着一枚が必要かもです。
季節の変わり目は特にお身体へのお気遣いをお忘れなく!
さて今回は、まさに絢爛豪華という言葉が値する画家、「梅原龍三郎」について書きます。
京都市下京区芦刈山町生まれの日本画家で生まれは1888年3月9日。生家は友禅やちりめん等の布地を扱う絹問屋で、龍三郎は三男坊でした。京都の中心部に当時周囲の家と比較しても断然大きな家で裕福な家庭に生まれました。家は周辺の職人に仕事を割り振り、出来上がったものを得意先に届けるのが仕事で、町のほとんどの職人が龍三郎の家の仕事をしていたことから、子供心に町内に君臨している気持ちだったと「京の幼きときの思ひで」の中で回想しています。
また毎日のように絵師が図案の模様を描きにきましたが、その際に尾形光琳や俵屋宗達についての話などもよく聞いており、裕福かつ、美的感覚を磨ける環境下で21歳まで育つことになります。この間、中学3年を終わろうとする頃に病のため休学しその後学業を放棄。1903年15歳の
ときに伊藤快彦の画塾に入り、同年に浅井忠の洋画研究所に移りました。
この浅井忠は当時フランスより帰国したばかりの気鋭の画家であり、後に昭和の二大天才画家と賞賛される安井曾太郎とともにこの研究所でデッサンを学び水彩を描きました。そして1908年5月にフランスへ出航し同年7月にパリに到着。安井曾太郎はその前年に渡欧していました。
到着してすぐに龍三郎はリュクサンブール美術館でルノワールの作品を見ます。
この絵こそが私が求めていた。夢見ていた、そして自分で成したい画である。と「ルノワルの追憶」の中に記しています。
このルノワールの絵との出会いをきっかけにカーニュにあるルノワールのアトリエを訪ねます。
そして、いかに深くルノワールの芸術を愛しているかを伝えました。
ルノワールがカーニュの画室からパリに戻ると隣家に住み、たびたび訪問します。
あるとき龍三郎が描いた絵をルノワールに見せたところ、驚きの声を上げて、「君には色彩がある。デッサンは勉強で補えるが色彩は天性だ」と、その色彩感覚を高く評価し、続けて「何でも手当たり次第に写生せよ。向こうを見て、五分間を待たずに画け」と激励したといいます。
1913年に帰国しルノワールと接した生活は終わることになりますが、その後も文通を続けました。ルノワールへの思慕の念は消えることなく深まるばかりでしたが、1919年12月にルノワール死去の報せを聞いたときには「足もとから地が裂けて来た様な驚きと悲しみに打たれ彼の死を知り、泣く」という弔電を打ったとのことです。
ルノワールは梅原龍三郎も含め、多くの画家に直接的にも間接的にも影響を与えています。そして梅原龍三郎も少年時代からの良きライバルだった安井曾太郎とともに日本の洋画界の頂点を極め、「日本洋画壇の双璧」と謳われ、日本洋画界の重鎮として多くの画家に影響を与えました。
豪快かつ純粋。思ったことはすぐにでもやる。やらずには気が済まない激しい気性の画家でした。
何事もそうですが、梅原龍三郎を知り、さらに知ろうとすればするほど、がむしゃらっていいなぁと思います。
私もとりあえずですが始めたばかりのジョギング、がんばります!
さいごに
なお、八光堂では梅原龍三郎の作品も高価買取中です。
他にも気になる作家の絵画や骨董品などがありましたら、お気軽にご連絡下さい!
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