求道の人 高田博厚~芸術への深き探究心~
高田博厚について
10月に入り、秋の涼しさが増した今日この頃。
お客様にとっても実りの秋として頂けるようスタッフ一同精進して参ります。
さて、今回は先日名古屋本店にて買取りさせて頂きました「高田博厚」についてご紹介致したいと思います。
・画家志望から生涯彫刻家に
石川県鹿島郡矢田郷村(石川県七尾市)にて生を受けた彼は、父親の弁護士開業のために移り住んだ福井県にて東京美術学校在学中の彫刻家・雨田光平氏を知る事により、美術・文学・哲学と次第に熱中していきます。
中学卒業後、絵の勉強のため上京し東京美術学校を受験するも失敗し、東京外国語学校へ入学。
その後友人に高村光太郎、岸田劉生、中川一政などを紹介される。
その他、武者小路実篤、中原中也、梅原龍三郎らとも知り合い交流を深め、知己を深めたそうです。
この時、彫刻家で詩人の高村光太郎との交流と白樺派に送られたロダンの彫刻に感銘した事により、東京外国語学校を中退し画家から彫刻家を目指します。
・求道の人 夢見たパリへ
彫刻家を目指した彼はずっと憧れであったパリへ渡仏します。なんと妻と子供4人をおいて。既に結婚し、子供をも授けていた彼は、実ではなく夢を追ったのです。
その後27年間、一度も日本には戻りませんでした。
そのため、妻とは離別します。
パリへ渡った後、ロダン、マイヨールらに学び、かねてから文通していた文豪ロマン・ロランや哲学者アラン、詩人ジャン・コクトーなど当時の代表的芸術家や思想家から数多くの事を学びました。
ロマン・ロランからの紹介でガンジーと出会い、長時間交流した事のある日本人でもあります。
ガンジーの行動に共鳴し、無償でガンジー像を制作した事で求道の人と呼ばれるようになった彼は、他にも交友を深めた友人達の肖像作成に没頭したことが、ヒューマニズムの思想潮流と重なった事もあり、彼を一躍有名に押し上げる事となります。
・文筆家・思想家としての高田博厚
文筆家・思想家としての高田博厚も同じように形成されていきました。大学を中退し、翌年にはコンディビの「ミケランジェロ伝」を翻訳し出版するほどにまで独学で語学力を身に付けました。
思想家としては、「新しき共産村」の建設を画策し失敗、「無産者新聞」の記者をかくまい逮捕などもされました。
パリに渡った後も、第二次世界大戦中もフランスに留まり、レジスタンスの支援や毎日新聞嘱託の特派員となり、西欧彫刻会の現状などを日本へ紹介した。
これが今日の高田博厚の人気が未だに衰えが来ない要因ではないだろうかと言われています。
・帰国後の余生と衰えぬ探求
終戦直後はドイツで難民にもなっていた彼だが、パリからの帰国後は東京に居を構えながら、新制作協会会員・日本美術家連盟委員・日本ペンクラブ理事・東京芸術大学講師を務めました。
そして九州産業大学芸術学部の創設には尽力し、心血を注ぎました。
その後、老境を迎えた彼は再婚し鎌倉へと転居するのですが、それも制作のみに専念するためでした。
その時彼はこう言い放ったそうです。
「自分はまだまだ小僧だ」と…。
87歳で生涯を終えるまでただひたすらに探求し続けた彼はきっと、満足した余生を過ごし
ていたことだろうと私は思います。
さいごに
彼の代表作であるロマン・ロランなどを見ていると、彼が探求した美や技術・そして詩などの情緒溢れる感性が彫刻や絵画などに柔らかく溶け込み、そして彼が今まで見てきた親友たちの内面を、作品を通じて肌身に感じる事ができます。
探求したことにより形成された彼の作品を皆さんも触れてみてはいかがでしょうか。
そんな高田博厚の作品をお持ちのお客様は是非八光堂へご連絡ください。
まずはお電話・メールでご連絡いただけましたら、無料でご査定させて頂きます。
お客様からのお問合せを、心よりお待ちしております!