色彩の魔術師・和田三造
和田三造について
1883年、和田三造は鉱業所の勤務医や校医を務めた父の4男として兵庫県に生まれます。
兄が福岡県の大牟田市の鉱山業をしていたため、13歳の頃に一家で福岡に転居してきます。中学校に進学するも、画家を志し周りの反対を押し切って退学、そのまま上京し黒田清輝の住み込み書生となります。白馬会洋画研究所に入所し黒田清輝に師事します。
東京美術学校に入学同期と八丈島への渡航中に嵐に出会うのです。その経験が後の代表作品「南風」に繋がります。
卒業後数々の賞を受賞し、文部省の留学生として渡欧。フランスを中心にヨーロッパ各国を巡歴、道中インドなどに寄ったところ東洋美術の魅力に魅せられます。帰国直後のインタビューに「西洋の事は忘れました、やはり東洋の方が面白いですな」との言葉を残しています。
ヨーロッパからアジアにかけての巡歴により日本の美術の美しさに目覚めます。東西様々な構図や色彩に挑戦する中、次第に絵画という枠を超えていきます。能や踊りの舞台美術、着物の衣装デザイン、映画の色彩指導、アニメーションの制作等々意欲的に取り組んでいきます。
海外留学により目覚めた和田のヴァイタリティーは多彩な活動を可能にし、日本美術界に色の標準化を完成させ、映画界では衣装デザインでアカデミー賞を受賞するなどその存在は多岐に渡るのです。
和田三造の代表作品「南風」。
その作品は光にあふれ色彩に溢れていました。
若かりし頃の実体験を元に制作された作品です。和田は一度船に乗っている時に嵐に遭います。
乗り合わせていたのは和田や船長など計5人ほど、船が転覆しそうになるので、船長が船を軽くするために荷物を捨てるように提案します。和田も大切な画材の入ったカバンを捨てようとしたところ、船長に止められます。万が一助かったとき若い和田の将来に申し訳ないとの事でした。
その事件を境に和田の心境は変化し、より一層絵の制作に励んだそうです。描かれた作品は嵐の後の船上、船上にうずくまる船員の中、まばゆい光に包まれた一人の男。光と影、不の題材の中に強い希望が宿っています。その後、和田は色彩の美を追求していくのです。