陶芸を芸術に高めた板谷波山
板谷波山について
日本における「焼きもの」の歴史は古く、日本最古の土器は1万6千5百年前のものと言われており世界的に見ても最も古い部類です。
日本人の日々の暮らしと結びついて発展してきた焼きものは時代とともに装飾性・意匠性が高まっていきますが、長い間芸術品としての評価は受けられず近代まで実用性重視の工芸品扱いでした。陶工は「職人」ではありましたが、芸術家・アーティストとしての「陶芸家」との評価を得られるようになったのは実は近代になってからでした。
陶芸の価値を芸術に押し上げた立役者の1人が、今回ご紹介する板谷波山(本名・板谷嘉七)です。
1872年に茨城県で生まれた波山は風流人で南画をたしなんでいた父親の影響で、幼い頃から絵や芸術に興味を持っていました。
1889年に設立間もない東京美術学校に進学するも当時は希望していた陶芸科がなく彫刻科に所属します。彫刻科で高村光雲から木彫を学び卒業後には石川工業学校の彫刻科教師として赴任、2年後に彫刻科が廃止となると同校の陶芸科教師となります。
石川工業学校は当時の窯業化学分野で最先端を誇っており、陶芸を学ぶ者にとってはこれ以上ないほど恵まれた環境にありました。
元々は陶芸を志していた波山は生徒への指導と並行して自身でも釉薬の研究を始めます。また窯元へ赴き作陶の勉強も行いました。
次第に陶芸家として活動したいとの思いが強くなり、1903年には陶芸家としての独立のため上京。故郷の「筑波山」にちなみ号を「波山」とし、焼きものを芸術の領域に高めようと試行錯誤を重ねます。
教師時代の研究成果を下地に自分の窯で更なる研究を行い、波山はオリジナルの「葆光釉薬」を完成させます。葆光とは「光を包み隠す」という意味の不透明釉で、つや消し効果により薄いベールに覆われたようなマットで柔らかな質感を生み出すことに成功しました。
また波山作品を語る上で欠かせないのが繊細で緻密な彫りです。
美術学校で彫刻をしっかりと学び、その技術と経験を応用した作品は他の追随を許しません。波山が施した薄肉彫りという浮き彫りは表面に模様を薄く浮き上がらせて彫る方法で、厚みを持たせず高低差の少ないなかで模様を表現するため、高度な技術が必要になります。
彫刻科で習得した技術を存分に発揮し独自の釉薬を纏った格式高い波山作品は人気を博し、近代陶芸史に大きな功績を残すことになりました。
1953年に陶芸家初の文化勲章を授章。波山の努力が結実し陶磁器が「日用雑器」という扱いから芸術へと昇華された瞬間でした。