音丸耕堂の彫漆
音丸耕堂について
昭和30年、50歳で重要無形文化財「彫漆(ちょうしつ)」保持者となった音丸耕堂。
製作に対する姿勢はとても真摯なものでした。
今回は、音丸耕堂についてお話しようと思います。
漆芸作家の音丸耕堂は、明治31年に香川県高松市に生まれました。
尋常小学校を卒業後、母の姉である音丸ヨネの養子となります。
ヨネは耕堂に「手に職をつけさせた方がよい」と考え、讃岐彫りの石井磬堂(いしいけいどう)の内弟子をすすめました。そうして耕堂は12歳のときに彫りの世界に入ったのでした。
石井磬堂は、弟子にものを教えるのではなく、自ら学ばせようとする人でした。
師のもとで耕堂は仕事を進んで引き受け、自ら工夫しながら彫りの技術を高めていきました。
その後、彫漆作家の玉楮象谷(たまかじぞうこく)に注目します。
彫漆とは、漆を何回も塗り重ねて厚い漆の層をつくり、彫刻刀で立体感のある模様を彫り出す技法のことです。漆を塗り重ねる作業は根気が必要で、百回塗り重ねてやっと厚さが3mmほどになります。塗った漆を乾かす工程もあるので、一日にひと塗りしか出来ない場合もあります。よって集中力と時間がかかることを理由に、当時の作家たちからは敬遠されていました。
耕堂は敢えてこの彫漆に挑むことを決心し、地道に独学で漆塗りを取得しました。
耕堂は下絵にもこだわりを見せます。「他人が描いた絵は使用しない」と、自らデザインした絵を使えるようになるため、穴吹香邨(あなぶきこうそん)に絵を教わりました。
空いた時間には基礎を養うために草花や魚などのスケッチを続け、ときには一日中墨で直線のみをひくトレーニングもしていました。
こうして耕堂は、「彫り」「塗り」「絵」の技術を身につけ、彫漆の作品を作りあげました。
基礎を固めた上で、耕堂は新しい試みに取り組んでいきました。
漆に金粉を練り込んで断面に濃淡を表したり、彫りに関しては丸い刀を用いて滑らかな曲線を描くこともあれば、彫刻刀で鋭く削って切り絵に見えるような表現もしました。
彫漆の新たな表現に試行錯誤する中で、晩年の作品は使用する色を減らし、彫りの技術が際立つごまかしのきかない作風へ変化していきました。
音丸耕堂の言葉に「人生是七千日」があります。これは耕堂が50歳を過ぎた頃に70歳まで生きることを目指した言葉で、20年は日数で換算すると約7000日です。一日一日を大切に過ごし、仕事に真剣に向き合いながらも楽しむ気持ちを忘れない彼は疲れ知らずであったといいます。
一刀に込められた躍動感、生命力が溢れる作品の数々は、今も人々の心を動かし続けています。