高村光太郎~探求し続けた道程~
高村光太郎について
「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」
皆さんはこのフレーズを一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。
その作者こそ、高村光太郎その人です。
高村光太郎は詩人で彫刻家と多彩な才能を持ち、多方面で活躍しました。
そんな彼の道程を紐解いてみたいと思います。
・父・光雲との葛藤
光太郎は、1883年に彫刻家である高村光雲の長男としてこの世に生を受けました。7歳離れた弟に後の鋳金師となる高村豊周もおり、兄弟ともに父のもと後継者として幼い頃から芸術に触れて育ちました。
1890年に東京美術学校(現在の東京藝術大学)の彫刻科へ進学しますが、時同じくして光雲も同大学の彫刻科の教授に就任します。その頃から光太郎は偉大な父の存在が重く圧し掛かり、彫刻の道を進むにつれて葛藤するようになります。その一方、文学にも才能を開花させ、在学中には与謝野鉄幹が刊行する同人誌に篁砕雨(たかむらさいう)の名で詩や短歌を寄稿するようになります。
・欧米留学
そんな中光太郎は、雑誌に掲載された彫刻家オーギュスト・ロダンの作品「考える人」を見てその造形美に衝撃を受けます。職人気質な光雲とは対極に位置するロダンの芸術に魅了され、ロダンについて没頭、追求していくようになります。そして光太郎はロダンに傾倒するあまり、自費でアメリカ、ロンドン、パリ…と欧米へ留学に出ます。そこでは文化の違いや同好の士と出会い触れ合うことで見識が広がり、自身の美的感覚や価値観などを研鑽していきました。
・智恵子との出会い
帰国した光太郎は西洋の近代的な芸術について論じるも、保守的な当時の日本の美術界には受け入れられず、不満を持つようになります。そんな折に光太郎を支持する女性が現れます。それが長沼智恵子、後の光太郎の数ある文学作品の中でも有名な「智恵子抄」のモデルでもあります。彼女は画家で、平塚らいてう率いる女性解放運動にも参加するなど当時としては珍しいタイプの女性でした。革新的なふたりは惹かれ合い、光太郎の芸術にも理解を示す智恵子の存在は、まさに救世主でもありました。
しかし、智恵子は父が亡くなり実家も破産するなどの不幸により心身ともに病み、闘病ののちに命を落としてしまいます。そんな智恵子に、死別から3年後に出会いから別れの約30年にも渡る思いを捧げた手記が「智恵子抄」であり、その綴られた文章からは智恵子への深い愛情が窺い知れます。
芸術に、伴侶に、すべてにおいて真摯に向き合い貫く姿こそ、彼の辿ってきた道程なのでしょう。