高田誠~浦和の天才画家~
高田誠について
高田誠は洋画家であり浦和画家の代表的存在として知られています。
1913年、埼玉県浦和町(のちの浦和市、現在のさいたま市)常盤町で生まれ、家系は代々医者で父親も医師でした。家柄もよく、少年時代から特に生活に困る事もなく絵に親しみ、早くからその才能を周囲の大人に披露していたようです。
小学校高学年のときには既に油彩を制作しており、中学校に進学すると福宿光雄から絵を学び、さらに絵にのめり込んでいきます。
驚くべきは若干16歳にして「浦和風景」を出品し、これが二科展で入選するという早熟ぶりです。天才は早熟であるとは言いますが、高田誠もそうでした。
当然プロとしても認められるほどの実力でしたが、さらに上を目指すべく安井曾太郎に師事します。安井からも多くを学びますが、向上心のかたまりだった高田は、熊谷守一などからも貪欲に技術を吸収し、オリジナルの画風を追及していきました。
そんな高田誠ですが、師であった安井曾太郎の影響から脱し、次第に作風を変えていきます。
点描という技法を用いて作品を制作するようになりました。
高田誠の点描は独自性に溢れていて、彼の代名詞とも言えます。
特に点描で描かれた、花や風景は高い評価を受けています。
実は、高田誠は勢いで点描を描いていたわけではなく、筆を走らせる前から緻密に絵の構図を計算していき、その結果として誰もが観賞に耐えうる作品を生み出してきました。
その技法がいつしか高田誠のオリジナルの点描として評価されていったのです。
点描自体は、我々には親しみやすい表現方法で、例えば、スマートフォンの画像やインクジェットのプリントも色彩の点の集合なので、点描と言えます。
もしかしたら、高田誠を含め点描の画家は時代を先取りした作家なのかもしれません。
そんな独自性溢れる彼の作品は、死去から20年以上経ったいまも、多くの人に愛されています。彼のルーツである浦和に行くと、いたる所で彼の作品を観ることができます。さいたま市役所や現さいたま市民会館などで彼の手がけた壁画がまちのシンボルとなり、今でも多くの人達に愛されています。