林武~絵を捨てた先に見えたもの~前編
林武について・前編
林武(はやしたけし)は近代の日本を代表する洋画家です。絵画がお好きな方であればご存知な方も多いかと思います。
東京芸術大学の教授も務め、1967年には文化勲章も受章していることからも分かるように、日本の洋画界において彼の影響は多大なものです。
今回はそんな林武がどんな人物だったのか2部に分けてお話していきます。
・苦労した幼少期
1896年(明治29年)に東京で6人兄弟の末子として生まれます。国学者の家系で、父親は国語学者でした。その父親はいかにもという学者で、研究に没頭するあまり家庭のことなど全く考えない方だったようです。そのため、家計は火の車で母親が牛乳販売をしながら、なんとか生計を立てているような暮らしでした。
子供たちも牛乳販売の仕事を手伝っており、武も上の兄弟たちと同じく牛乳配達をしていました。雨の日も風の日も小さな手で荷車を引いて歩いたそうです。中でも辛いのが冬です。牛乳や新聞など配達業務の経験がある方はお分かりになると思いますが、朝早い冬の寒さの中、雪が積もった道を1人孤独に配達するのは大人でも耐えられないほどの辛さです。それを小さな子供が家計を助けるために必死に頑張って、ときには耐えられずに泣きながらやっていたそうです。
人一倍責任感の強い武少年は、末子であるにも関わらず、自分が家族を背負うんだという覚悟がありました。
そんなある日の配達中に不思議なことが起きます。
その日はとても寒く、雪も降っていたのですが、いつものように辛くても我慢していました。しかし、あまりの寒さで武少年の我慢もついに限界を超えたときに、何か光のようなものを感じて、全身から力が漲ってきたことがあったそうです。まるでマッチ売りの少女のような話ですが、この奇妙な霊体験とでもいうような体験がこの先の辛いときにも自分自身を奮い立たせてくれたと語っています。
・不遇の学生時代
小学校を卒業して早稲田実業学校に入学してからも手伝いを続けていたのですが、学業と労働で少年の体はボロボロ。ろくに睡眠もとれずについに過労で体を壊してしまい、入学からわずか1年足らずでやむなく退学します。回復してからは東京歯科医学校に入学して歯科医の助手をするものの、これは続かずに退学となっています。
その後画家になることを決意して、牛乳や新聞配達でお金を貯めて日本美術学校に入学します。このとき武は既に23歳になっていましたが、苦労の末についに人生の道を見つけて歩み始めました。
続きはまた明日にさせていただきますね。
さいごに
林武の描く絵が私は好きで、こんな惹き込まれる絵を描く人ってどんな人なのだろう・・・と調べてみたのですが、ここまでの苦労を重ねていたとは露にも思いませんでした。
ひとつの作品からその作家の人となりなどを遡って知ると、さらにその作品に思い入れが深くなりますよね。
皆様も私のように思い入れが深くなった作家・作品があるのではないでしょうか?
思い入れの深い作品を止む無く手放さなければならない・・・
そんなとき、八光堂をご検討ください。
次に大切にしてくださる方への橋渡しをさせていただきます。