モダニズムの子・小磯良平
小磯良平について
洒落た電車が目の前を颯爽と駆け抜け、町にはモダンなビルが立ち並ぶ。郊外に目を向ければホテルや歌劇場など華やかな大人の社交場がある。そんな環境の中で小磯少年はモダニズムの子として育っていく・・・。
小磯良平。類まれなる描写力と優雅な色彩で描いた女性像に定評のある画家です。
良平は明治36年(1903)、旧三田九鬼藩の旧家で、貿易に携わっていた岸上家の次男として、神戸市に生まれました。
神戸といえば、1868年に兵庫の開港と外国人居留地の建設が始まります。そして洋館やビルが立ち並び、石畳やレンガ舗装の道には街路樹やガス燈が立ち並ぶ、モダンな街に成長していきました。そこで良平は町中に流れるモダニズムの空気を胸いっぱいに吸い込みながら、画家としての下地を作り上げていきます。
中学校に進学した良平は、小学校時代からの友人である田中忠雄(キリスト教美術家)や竹中郁(詩人であり、良平の生涯の友人)と毎日のようにスケッチに出かけるようになります。
そんなとき、岡山県倉敷でクロード・モネやアンリ・マチスなどフランス絵画の展覧会が開催され、良平と竹中は夜汽車に乗り込み倉敷へ向かいました。
会場に並べられたフランス絵画を前に、少年たちの心は大きく揺さぶられました。神戸のモダニズムに育てられた少年たちとフランス絵画、共通する心があったのでしょう。
そして東京美術学校(のちの東京藝術大学)に入学します。同級生は、荻須高徳や山口長男などの名前が揃い、よきライバルに恵まれて学生時代を過ごします。
東京美術学校卒業後、良平と竹中は二人でヨーロッパを巡ります。
画家を志す良平と詩人を志す竹中、目指すはパリ。
ヨーロッパの文化の中心で2人の青年は生涯の糧となるものを多く得たのでしょう。帰国後、良平は本格的に創作活動を始めるためにアトリエを作ります。
そんな最中、世の中は戦争一色に染まろうとしていました。
1937年、盧溝橋事件を発端に日本と中国は全面戦争に突入します。その時良平は、戦場の様子を記録する戦争記録画作成のために陸海軍の嘱託の身分で中国に渡り、戦場の様子を描き続けました。そして1945年5月の神戸大空襲で良平はアトリエと自宅を失い、そして多くの作品も灰と化してしまいました。
戦後、良平は母校で教鞭をとるようになります。その傍ら、様々な流行に流されず、油彩の作品に制作し続けます。良平の作品は油彩でないと表現できない世界なのでした。
小磯少年が胸いっぱいに吸い込んだ神戸の空気も、フランス絵画を見て揺さぶられた心も、パリの街で吸収したことも、戦場で絵を描き続けた経験もすべて作品に中に凝縮されています。
だからこそ、私たちの心を魅了してやまないのでしょう。