木村雨山の着物を買取いたしました
木村雨山について
加賀友禅の繊細な模様と、艶やかな色彩。
計算され尽くした美しさは、見る人に感動を与えます。
この見事な着物はどのようにして作り出されるのでしょうか。
今回は昭和に活躍した加賀友禅の人間国宝、木村雨山をご紹介します。
雨山は明治24年に石川県金沢市に生まれました。小学生の頃から絵を描くのが上手で、勉学の成績もたいへん優秀な少年だったそうです。そして小学校を卒業後、両親の「手に職を持つように」という教えを守り、職人の道に入ることを選びます。加賀には伝統工芸の絹織物があり、宮廷への献上品にされるほど生産が盛んでした。そのような環境で育ち、身近な草花で布が鮮やかに染め上がる様子をみて、「染色に挑戦してみよう」と考えました。
染色の道に進むことを決めた雨山は、加賀染で広く知られていた上村松太郎につき、加賀友禅の修行をすることになりました。
松太郎のもとでの修行時代には、師から与えられる草花や花鳥の手本を練習し、筆の持ち方から墨のつけ方など、基本を大切にした指導を受けました。また、本物の草花を見ることが大切だと考え、朝早くに起きて草花を写生するなど努力を積み重ねました。
松太郎は着物の染絵の技法については「見て覚えよ」というスタイルだったので、師が上絵付けするところや、糊置、生地を乾かす工程などをしっかり観察して技術を少しずつ、確実に自分のものにしていきました。
こうして、雨山は加賀友禅を生み出すために大切な基礎部分の土台をしっかりと固めたのです。
大正13年に独立した後は、当時の帝展や文展などの展覧会に多く出品しました。自らの作品の評価を真摯に受け止め、次の作品の方向性を考えるためです。
また後継者の育成にも熱心で、厳しく、けれども真剣にアドバイスを与えました。贅沢をしない質素で控えめな生活を重んじ、人に頼まれると日本画を描いて渡すなど情に厚い人でもありました。
そして、厳しい修行のなかで培われた技術で作りあげられた作品は高い評価を得て、昭和28年無形文化財に選ばれました。
晩年は病に伏せても指を動かし、最期まで感性に満ちた意匠で見る人を驚かせましたが、雨山が古き良き伝統に新しいものを素晴らしく調和させることが出来たのは、磐石な基礎があってこそ。着物という舞台に活き活きと丹念に描かれた雨山の世界は、今でも人々の心を動かし続けています。
さいごに