写生画家・円山応挙
円山応挙について
こんにちは。
今回は幽霊画や、かわいい江戸絵画の犬図などが取り上げられる円山応挙についてお話したいと思います。
つい去年末にも都内の根津美術館にて、円山応挙の特別展が開催されているほどの今なお人気の絵師ですね。ご覧になられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
円山応挙は江戸時代中期に活躍し、その時代にない新しい絵画表現を完成させた画家です。
写生絵画はそれまでにない斬新な手法で、応挙は「写生派の祖」といわれるようになりました。
1733年(享保18年)に現在の京都府亀岡市(丹波国桑田郡)に農家の次男として誕生。幼少期より絵を描くことが好きで、15歳で尾張屋という玩具屋に奉公し眼鏡絵や人形制作などを学び、眼鏡絵によって西洋(正式には中国製の眼鏡絵であったので西洋風)の遠近法の基礎を身につけました。
17歳で狩野派に入門し石田幽汀に花鳥画などを学び日本画に遠近法を融合させるという新たな手法を確立しました。
大津・円満院門主の祐常がパトロンとなり、二人三脚をしていきます。これを円満院時代といいます。
そして1766年(明和3年)に応挙と改名し、様々な作品を手がけていくようになります。
円山応挙の写生
写生とは、見たものそのままに表現するということです。
これは従来なかった手法で、見た人々に衝撃を与えることとなりました。
ただし応挙の場合、見たものそのままを取り入れるのではなく部分的に応用したのが特徴であり、リアルとフィクションを上手く融合させ、フィクションをいかに本当らしく描くかに重きをおきました。「リアルに見える」ことを目指したのが応挙の絵画であるといえます。
リアルに見えることが大切なので、直接目にできないならばそれに「近いもの」を代わりに見て写生しました。たとえば鳥のくちばしを描くのに質感の似ている象牙を観察し、龍を描くときには空想上の生き物なので実際に見たことがありません。ですので、魚の鱗を参考に取り入れたそうです。
七難七福図巻の写生
七難七福図巻とは、「七つの幸福、七つの苦難」を表現した作品です。
想像上の天国や地獄を絵で表現しても、いまいち伝わらないことを思った祐常が応挙に依頼。リアルな現実の出来事に置き換えた作品を描きました。
現実の「天国と地獄」を見た人々が悔い改め、良い行いをするようにと全3巻(七難「天災巻」「人災巻」、七福「福寿巻」)を3年間もの年月をかけて製作。
その中で描かれる刑罰の図は、当時の死刑(一部はすでに廃止)を写生してよりリアルな描写になっており、応挙自身が実際に死刑場へ赴き、スケッチをした情景を取り入れました。そのリアルな作品は見る人に衝撃を与えたといいます。
さいごに