伊東深水~その深い、愛をもって~
伊東深水について
「ボイン」という言葉をご存知でしょうか?
いきなり何の話だ、と思われたかもしれません。
この言葉が生まれたのは1967年。あの大橋巨泉が生みの親です。
あるテレビ番組内で、胸の大きな女性のことを指して発した表現ですが、その対象になった女性が、歌手でもありタレントでもある女優の朝丘雪路でした。
朝丘雪路は父親からの過保護な「愛情」を受けて育ちましたが、その父親こそが本日紹介する日本画家・伊東深水なのです。
伊東深水といえば、美人画で有名ですが、繊細で優しいその絵の数々は本当に見事で、現代における「二次元に恋をする」感覚の起源と言っても過言ではないかもしれません。
当時、彼の絵の中の女性に恋する男子も多かったのではないでしょうか。
その数々の作品のモデルになっているのは、深水自身の妻です。本人も相当に美人だったようですが、自分の愛する妻だからこそ、愛というフィルターを通して描かれ、多くの人々に支持されたのかもしれません。
1898年に東京に生まれた深水は、本名を伊東一(はじめ)と言い、14歳のときに日本画家の鏑木清方の元へと入門しました。
このとき、師である清方より「深水」という号を与えられます。
翌年、巽画会展へと出品した「のどか」と言う作品が初めて入選し、その後も数々の作品が入選を続け、1919年に好子と結婚しました。
「指」や「湯気」といった、妻・好子をモデルとした作品が人気を博し、美人画での名声を得ていきます。
本人には色々な画題を描きたいという願望がありましたが、その素晴らしい美人画への反響があまりにも大きく、他の作品の注文が全く来なかったといいます。
これには深水自身も、画家として戸惑いを見せていたようです。
その深水の気持ちは、おそらく皆さんにもお分かりになるのではないでしょうか?
和食を作りたいのに、中華ばかり作ってと言われてしまう・・・。
アップテンポを唄いたいのに、バラードばかり唄ってと言われてしまう・・・。
自分の気持ちとは裏腹に、周りからの期待が押し勝ってしまい、好きなことができない状態。
物事の大小はあれど、誰にも同じようなことがあるはずです。
そんな中でも深水は、その多くの期待に応えて次々と人気作を発表していきました。
こうして「美人画といえば伊東深水」というパッケージを見事に作り上げたのです。
しかし、何が彼をここまで突き動かしたのでしょう?
もちろん、画家という職業である以上、「売れる作品」を描かなければ生活してはいけないということもあるでしょう。
ですが、やはりそこはモデルとなった妻への溢れんばかりの「愛情」があったからではないでしょうか。
しかしながら、深水には愛が溢れすぎていた、とでも言えば綺麗過ぎるかもしれませんが、愛を注ぐ対象が妻一人では物足りなかったようで、多くの女性たちと噂になったといいます。
その中の一人である料亭「勝田」の女将・勝田麻起子との間に産まれた女の子が、冒頭でお話しした朝丘雪路です。
可愛い娘に対する愛情は他の者へのそれを遥かに超えており、周りから「このままでは娘さんがだめになる」と注意を受けたほどでした。
例えば、小学校への通学に人力車を用意し、下校時間まで教養係と車屋を学校で待たせていたそう。さらには、傘を開くことさえ、指が怪我してはいけないからという理由でやらせてもらえなかったほどです。
そのため、娘は一般常識すら分からぬまま育ち、女優・朝丘雪路として有名になった現在でも、切符の購入さえ一人では出来ないそうです。
度を超えた愛情は時に狂気とも受け取られますが、朝丘雪路本人は「父親が間違ったことをするはずがない」と、特に疑問に思わなかったそうです。
話は少し逸れてしまいましたが、伊東深水という人物が、いかに大きな、そして多くの「愛情」を持っていたのかということが、皆さんにも伝わったのではないでしょうか。
そんな背景を知ってから見てみる彼の美人画たちは、また違った見え方がしてきませんか?
人それぞれの意見があるとは思いますが、「作品」と呼ばれるものの一番大切な要素は、「愛」なんじゃないかと、私は思います。
溢れ出る愛情を余すことなく注ぎ込み、作り上げた作品が周りの期待に応えていく。
そうやって作られた中華料理は美味しい。
そうやって唄われたバラードソングは心に響く。
さいごに
「ボイン」なんて言葉から始まったこのブログも、こうして愛情を持って終えるとします。
あなたのお手元にある愛に溢れた作品たちも、手放される際には是非一度、古美術八光堂までご連絡ください。
その愛を次に愛される方へと引き継ぐお手伝いをさせていただきます。
まずはお査定だけでも受け付けておりますので、売却をお考えの際はご用命いただければと思います。