絵に一途な情熱を注いだ安井曾太郎
安井曾太郎について
京都にも本格的な冬が訪れました。
ふと出勤途中に立ち寄ったコンビニで、なんともおいしそうに見えたのが肉まん。
寒風吹きすさぶ中お腹も空いていたのでコンビニ前に備え付けてあるベンチで頂きました。
温かいものを食べているのでもちろん吐く息も白くなります。
冬になると、食べるものも飲むものも温かいものをついつい欲してしまいますね。
そういえば八光堂京都本店の前道沿いにあるラーメン屋さんも、最近行列が長くなったような・・・笑
寒暖の差が激しい日もあり毎年この時期に風邪をひいてしまう私・・・。
体調を崩しやすいのがこの時期です。
皆様もどうぞご自愛下さいませ。
さて今回は、まさに絵に一途な情熱を注いだ画家・安井曾太郎について書きます。
幼少期の曾太郎
安井曾太郎は1888年5月17日に京都市中京区で生まれました。
そこは現在の新京極の西側の六角通りと富小路通りを交差するあたりで、生家は二階建ての商家で軒に安井商店と書かれた紺色の暖簾を出した大きな木綿問屋でした。
商家の生まれであり決して貧しくはなくむしろ裕福な家庭でしたが、中京商家の昔からの慣わしで幼少の頃はとても質素な生活で育ったそうです。
また生家の隣の藤田団扇堂という扇屋には、曾太郎の妹が養女として迎えられていた関係もあり、何の気兼ねもなくいつも藤田の家に出入りしていました。
朴訥で温厚な性格であった曾太郎にとって、生家はいつも客に応対する多くの番頭や小僧も居たりとにぎやか過ぎて落ち着く場所がない感じでしたが、藤田の家は扇屋という商売柄もあり静かで、長居をしてしまう何よりの理由としては藤田家の祖母が熟練した筆使いで描く京扇の模様描きがとても美しく、曾太郎の興味を惹いたからだったようです。
そして曾太郎もそれに習い、様々に描かせてもらったりし、絵を描くことへの好奇心はさらに養われ、後の画家への礎となる描くことへの志向が形成されていきました。
そのような幼少期を過ごした後に四年生の尋常小学校へ進み、親の言い付けもあって京都市立商業学校へ進んだ曾太郎は、画家を志す気持ちが抑えきれず父親に打ち明けますが、もちろん反対されます。
しかし、長兄の彦三郎が曾太郎の気持ちを汲み、父にうまく話しを通してくれたことで画家を目指すことを許されたのでした。商業学校を中退した後に商業学校時代の図画教師・平清水亮太郎の家に一年間ほど通い、そこでデッサンや水彩画を学びました。
平清水亮太郎は京都洋画界の先駆者であった田村宗立の弟子でしたが、当時の曾太郎にとっては凡庸な指導者であったようです。
ライバルとの出会い
そうして1903年には画業に専念するようになりますが、絵についてしっかり学んだことがないことに曾太郎自身は焦りもありながら研磨する日々を過ごしていました。
そんな折に、西大谷にあった蓮池で写生をしていたところ、一人の若い画家に出会います。
その画家の絵は斬新であり、軽妙で驚くほどうまいもので、内気な性格であった曾太郎は声を掛けるのをためらいましたが、この機会を失ってはいけないと決意し、その画家に声を掛けました。
この画家は中林僊(なかばやしせん)といい、師事しているのが浅井忠であることを知ります。
そして中林僊の紹介で浅井忠の開設している聖護院洋画研究所に入門します。
この出会いが後に良きライバルとして、また友人として、日本画壇を支えていくことにもなる梅原龍三郎との出会いにも繋がり、また浅井忠と鹿子木孟郎(かのこぎたけしろう)らの適切な指導のおかげもあって、曾太郎は描くことに没頭します。
そして3年後、19歳のときにパリへ時を同じくして学んだ津田青楓(つだせいふう)とともにフランスへ留学します。
2人はパリに到着すると、鹿子木孟郎の紹介でアカデミー・ジュリアンのジャン・ポール・ローランスに引き合わされ写実の勉強をはじめました。
ここで曾太郎はすぐに頭角を現します。
ローランスの教室では毎月油絵と木炭画のコンクールが開かれたのですが、そのほとんどの賞を独占していました。
曾太郎は家宛ての通信で、人には内緒だとは伝えながらも「ジュリアンで賞を取るのは余り大した名誉ではありませぬ。美術学校でも同様です。皆ヘボ画かきばかり」と書いていました。
実際にその頃に描かれた木炭デッサンはどれも筆調が冴え実に精妙で、自らが成長していることと、初めて見るフランスの光景や初めて学ぶ知識、急に目の前が無限大に広がっていった曾太郎自身の絵に対する興奮がこの通信からも窺えます。
帰国後の曾太郎
そうして精力的に三年間学んだ後にアカデミー・ジュリアンをやめた曾太郎は、自分のアトリエを持ち、意欲的に自由制作に明け暮れるようになりましたが、やがてセザンヌの作風に魅せられその写実性に驚き影響を受けるようになります。
それまでの曾太郎の暖かく情緒的色調は、やがてセザンヌにある青黒く理知的なものに変化していきました。
そうして留学して学び描き続けた7年後の1914年に、第一次世界大戦の開始と自身の病もあり、周囲にも勧められて45点の作品とともに帰国の途につきます。
そして帰国後、曾太郎は1915年の新年を親兄弟で久しぶりに京都の生家で迎えることとなりました。
ただ自身の病は帰途の船上で奇跡的に快方に向かいはしていましたが、全快はしておらず療養が必要な状態でした。
しかしながら留学中の親友であった津田青楓はこの年に二科会の創立に携わっており、その誘いを受けて曾太郎も会員となり、10月の第2回二科会展に留学中の作品44点での特別陳列を行います。ですが、この日本画壇に最初の足跡を記したこの展示は、当時の日本人にとって衝撃的なものであり、フランスと日本の風土の違いに気付いた曾太郎は苦しみ、この後10年ほどは独自の画風を模索し続けたまさに低迷期でもありました。
しかし、1930年に発表した「婦人像」あたりから曾太郎独自の日本的な油彩画の様式が確立し、梅原龍三郎とともに第二次世界大戦前後を通じて昭和期を代表する洋画家と評されるようになります。
そして1944年には東京美術学校教授、1952年の文化勲章受賞など、その功績が認められ画家としての成功を収めることとなったのです。
自らの生まれた境遇を捨て、芸術の道を選び成功を勝ち取った安井曾太郎。
彼の絵に対する一途な情熱は、多くの人々に感動を与えるとともに朴訥で温厚だった少年を昭和期の代表する洋画家にまで成長させたのです。
さいごに