近代彫刻の父“オーギュスト・ルネ・ロダン”
オーギュスト・ルネ・ロダンについて
誰もが一度は目にした事のあるブロンズ像、ロダン作『考える人』。
実はあの作品は大作の一部である事を皆様はご存知でしょうか。
未完ではありますが、叙事詩『神曲』に登場する地獄への入り口の門をテーマとして造られた『地獄の門』。『考える人』はこの作品を構成する像の一部として造られたのです。
この像は、門の上部に設置される予定であった為、実は何かを考えているのではなく、地獄に落ちていく人たちを上から見下ろしているという説や、体中が頭になり血管の血が全て脳になるくらい考えているという説もあり、作品背景を想像するだけでも楽しめる作品ですね。
本日は『考える人』の作者、オーギュスト・ルネ・ロダンについてお話したいと思います。
下積み時代
オーギュスト・ルネ・ロダンは、1840年11月12日にパリで生まれました。
ごくごく一般的な普通の家庭に育ったロダンですが、近眼の為、黒板の文字が見えず小学校でも中学校でも勉強はさっぱり。算数はもとより読み書きもろくに出来ぬまま14歳になります。
ミケランジェロの版画集と出会い、デッサンをやりたくなったロダンは、父親に反対されながらも本人の強い希望で装飾芸術学校(プチ・エコール)へ入学。
しかし芸術の事を何も知らない事に気がつき、通学の前に友人宅で絵を習い、8時から12時までは学校で描写。午後は図書館やルーヴル美術館に通いながら時間の許す限り芸術について学びました。
ある日、遅刻しそうになったロダンは教室を間違えてしまいますが、その教室こそが塑像室でした。その頃の彫刻は石を彫るのではなく、粘土で原型を作るものだったため、粘土をいじったロダンはその楽しさに夢中になります。
17歳になる頃には、デッサンも学内で一等を取るまでに上達し、学業継続を望んだロダンはエコール・デ・ボザールを受験します。
しかし結果は三年続けて失敗。その後、建築装飾のアルバイトを転々とし、昼はバイト、夜は作品制作を行う毎日を過ごしました。
24歳の時には、バイト先で知り合ったお針子のローズ・ブーレと一緒に暮らし始めます。ちょうどその頃、大きな期待をかけた記念すべき公式処女作『鼻の潰れた男』をサロンに出品するも落選。あえて醜いものをリアルに表したところに意義があると考えていたロダンですが、かなりの酷評を浴びせられ、苦しい下積み時代へと突入します。
そして、栄華を誇る時代へ
30歳になると普仏戦争が勃発しますが、ロダンは近視の為除隊となります。
翌年からは彫刻家カリエ・ベールズの下、彫り職人として働き始めました。
37歳で『青銅時代』を発表。
その今まで見た事のない迫力が、「これは人間の体を型取りしたに違いない!」と審査員に思わせたこの作品は、またもや問題作として非難されますが、ロダンの類稀な才能はだんだんと広く知れ、認められるようになり、なんと3年後にはこの作品は国家が買い取ることにまでなったのです。
ロダンが43歳の時に運命の出会いを果たします。友人に頼まれ、たまたま教えに行った女性芸術サークルにて19歳のカミーユ・クローデルと出会ったのです。一目見てカミーユを気に入ったロダンは、彼女をモデルにし、そして弟子にし、さらには愛人へと関係を変えて一緒に暮らし始めます。(最終的にはローズの元へ戻るのですが、それは又別のお話で・・・)
その後のロダンは、『カレーの市民』をはじめ、『バルザック像』等々様々な傑作を発表します。この時期はロダンの彫刻家人生の中で最も充実した時期でした。
1900年、ロダン展がパリを皮切りに世界主要都市を巡回します。
ロダンはついにレジオン・ドヌール三等勲章を受賞し、各地の大学の名誉博士号を贈られ世界的な名声を得ます。66歳になると、パリ市に『考える人』を寄贈。
71歳の時にロダンがアトリエ兼住居として使っていたビロン邸がフランス政府に買い取られる事になりました。ロダンはこの邸を大層気に入っていた為、自身の作品と収集していたコレクションを国家に寄贈する代わりにこの住居を美術館として残してほしいと働きかけ、ロダンの死後ロダン美術館として開館することになりました。
御年77歳でローズと結婚するものの、結婚の翌月ローズが死去。ロダンも後を追うように同年11月17日にムードンで没。ムードンのヴィラ・デ・ブリヤンの庭に埋葬されました。
さいごに