川端龍子の掛軸をご売却いただきました
川端龍子について
こんにちは。八光堂鑑定士の北村です。
まだまだ寒さは続きますが、日中は日差しが暖かく感じられるようになってきましたね。
稜線がくっきりした山の絵。今にも踊り出てきそうな鯉の群れ。
こんなにはっきりと絵を描く画家は他にはいません。
今回ご紹介する川端龍子は、戦前を代表する「線」の日本画家です。
そんな龍子の生い立ちから遡っていきましょう。
画家への一歩
川端龍子は、1885年(明治18年)に和歌山県に生まれました。
幼い頃から絵画に興味を持ち、多くの絵を描きながら、どうすればもっと納得のいく作品を生み出せるのか・・・と模索する意欲的な少年でした。
18歳の時、読売新聞社の「三十年画史」の挿絵募集に2作品が入選し、「西南戦争」と「神戸沖の大観艦式」が掲載されました。この受賞がきっかけとなり龍子は画家を志します。
いざアメリカへ
入選の次の年、同級生がアメリカに渡航することを知り渡米に憧れ、28歳の時、周囲の反対を押し切って念願のアメリカへ向かいました。
憧れのアメリカで西洋画を学んでいた龍子でしたが、ボストン美術館で偶然見た「平治物語絵巻」に感銘を受けます。生活費を稼ぐために余技で描いていた日本画こそが、自らの根幹なっていたことにその時気付いたのでした。
こうして龍子は洋画家から日本画に転向します。
洋画家からの転向
帰国後、日本美術院に出品した「狐の径」が下村観山と今村紫紅に見出され、見事入選します。
近代の日本画には、線を無くして平面的に描くという傾向が主流とされてきていましたが、龍子は伝統的な日本画に見られる「線」に魅力を感じ、メリハリのある強調された線で躍動感のある絵を次々と描いていきました。
その後の龍子は洋画家からの転向という珍しさや、交際上手なところも相まって、徐々に人気が高まっていきます。
作品の背景に裏箔(画面の裏に、金箔や銀箔を貼ること)、砂子(金箔や銀箔を細かい粉にしたもの)などの伝統技法を取り入れつつも、従来の日本画にはない作風を目指して試行錯誤をくり返しました。作品を見る人々を喜ばせることにも、やりがいを感じていました。
しかし、画壇は写生主義が主流となり、人々の心は龍子の作品から離れていきました。それでも、あるがままの姿を静かに描き出す写実主義の流れに乗ることなく、「作品の中には観る人の心に訴えるものを込めたい」という信念を貫き、ひたすら線で表現し続けたのでした。
青龍社設立
その後、日本美術院に属していた龍子は院を脱退し、健康的で活気のある芸術作品の発表を目指して青龍社を立ち上げます。第一回目の展覧会で発表した「鳴門」が注目され、再び龍子の作品が評価されるようになりました。
「鳴門」は、群青の絵具を惜しげもなくふんだんに使い、青の波で画面を埋め尽くした大作です。
金泥を墨にまぜて、勢いと動きのある鳴門の荒々しさを見事に描ききりました。
龍子の晩年
龍子は絵に自らの魂を込めていました。
だからこそ、彼の生み出した作品は、生き物が持つ瑞々しい生命力と躍動感を強く感じさせるのではないでしょうか。
青龍社の同士と結束し、人との関わりを大切にしながら、戦禍が激しくなっても青龍展を開催し続けました。
「絵の描けない絵かきは死んだ方がよい」そう言って筆を執り続け、「線」の復活者は堂々と80年の生涯に幕を下ろしたのでした。
さいごに