佐藤忠良~日本人の彫刻~
佐藤忠良について
近代彫刻の父といわれるオーギュスト・ロダン。
ロダンの代表作「考える人」を知らない人はいないでしょう。
日本の近代彫刻にも多大な影響を与えたロダンですが、しかしその偉大さゆえに日本の彫刻界は、ロダンをはじめとする西洋的な彫刻の影響から抜け出せないジレンマに陥りました。
このジレンマから日本彫刻が脱却したきっかけが、本日ご紹介する佐藤忠良の作品です。
彫刻家へのきっかけ
佐藤忠良は1912年に宮城県で生まれ、6歳で父親と死別したのち母の実家がある北海道で暮らします。
少年時代は画家を目指しており、中学2年生のときに後輩で後に作家になる船山馨らと共に絵画部を設立するなど、精力的に活動していました。
中学卒業後の1932年に画家になるべく上京し画学校へ通います。絵の勉強をしながらも、フランスの彫刻界の巨匠であるロダンやデスピオに感銘を受けた佐藤は、1932年に東京美術学校彫刻科へ入学。画家から一転して彫刻家への道を歩み始めます。
在学中から国展に出品し受賞もするなど順調に活躍していましたが、時勢には抗えず徴兵され、戦後も3年間のシベリア抑留に遭い、日本に帰国するまで創作活動は一時中断してしまいます。
西洋的彫刻からの脱却
1948年にようやく帰国した佐藤は創作活動を再開します。
帰国からまもなくの1952年に、新製作展へ出品した日本人らしい造形の顔の「群馬の人」。この作品は非常に高い評価を受け、佐藤は彫刻家としての地位を確立し、その翌年には国立近代美術館に収蔵されます。
それまでは日本人の像であっても、どこか彫りの深い日本人離れした顔立ち・体躯をしたものしかありませんでした。
知人をモデルにした「群馬の人」は、どこにでもいるような素朴で日本人らしいのっぺりした顔立ちの頭像であり、これこそが西洋的彫刻からの脱却を模索していた当時の日本彫刻界に求められていた姿でした。
表現した“日本人の美しさ”
「群馬の人」の誕生にはシベリア抑留中の経験が関係あるようです。
収容所ではそれまでの立場や肩書きに関わらずみんなが同じ条件で、ある意味では平等な人間関係にありました。
佐藤は、そこでは日本にいた時に地位が高かった立場であった人よりも、普段はあまり省みられることのない一般的な人のほうが立派な人がいるということに気づいたといいます。普通の日本人の、普通の暮らしを送る人々の姿に魅力を感じたのでした。
そのためか、佐藤の彫刻はわが子や孫たち、教え子や知人など身近な人がモデルになった作品が数多くあります。何気ないしぐさや一瞬の表情を切り取って作品に込められたのは、モデルになった人の普通の暮らしを、暖かなまなざしで見ていたからこそかもしれません。
さいごに