出会い、発見、荒川志野~荒川豊蔵~
荒川豊蔵について
陶磁史をも変える発見
荒川豊蔵・・・実はこの方、志野焼に関して陶磁史を変える発見をされた方でして・・・。
そもそも志野焼とは、室町時代の茶人・志野宗信が陶工に命じて作らせたのが始まりで、鉄分の少ないピンク色がかった白土を使った素地に、志野釉と呼ばれる白釉を厚めにかけて焼かれます。
細かい貫入や小さな孔が多くあり、釉のかかりの少ない釉際や口縁には、赤みのある“景色”が出るという焼物の一種です。
余談ですが・・・国産茶陶としては2つしかない国宝のうちのひとつに、志野茶碗『銘:卯花墻(うのはながき)』が昭和34年に指定されています。
荒川豊蔵の交友関係
荒川豊蔵の軌跡にはたくさんの人との出会いがあります。
魯山人らと古陶磁をもとに作陶の見識を深めていきます。
桃山期の古志野を見て、可児市久々利大萱の牟田洞古窯跡で志野の陶片を発見し、1930年豊蔵36歳のときに志野が瀬戸(愛知県瀬戸市)ではなく、美濃(岐阜県東濃)で作られたことを証明したのです。この発見により、陶磁器の歴史を覆し、歴史を塗り替えたのでした。
その後、桃山陶再現のために茨の道を突き進み、開拓し、古志野の陶片を発見した大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を夢見て現実とするべく作陶を重ねました。
そして、ついには「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立するまでに至りました。
また、精力的に作陶する中で川合玉堂、前田青邨らの合作も作るなど、古陶の研究・再現のみならず、多様な交流によって自身の作品をよりよいものへと深めていきました。
荒川豊蔵の功績
1946年には、多治見市虎渓山町に水月窯を築き、普段使いの食器をメインとした染付・粉引・赤絵・唐津などの作品が現在も作られています。
なお、水月窯は機械を使わない工房で、多治見市の無形文化財にもなっています。
1955年、それらの功績によって、荒川豊蔵は国の重要無形文化財「志野」「瀬戸黒」保持者の認定を受けます。
苦渋の青年期で事業で失敗し画家への志も断念した荒川豊蔵でしたが、挫折した時期からほどなく志野を知り、人間国宝まで登りつめたその人生は、多くの人との縁によるものとも言えるのかもしれませんね。
さいごに