金城次郎~沖縄初の人間国宝~前編
金城次郎について・前編
皆さん、こんにちは。
金城次郎(きんじょうじろう)は沖縄の焼物である琉球陶器を代表する陶工で、沖縄の方で初めて重要無形文化財の保持者、いわゆる“人間国宝”に認定されました。
その作風は、他の焼物や他の作家とは一目見て違う、まさに唯一無二の陶器と言えます。
今回はそんな金城次郎についてお話ししたいと思います。
琉球陶器・壷屋焼
琉球陶器の産地というと、那覇市壺屋が発祥の壺屋焼(つぼややき)と読谷村の読谷山焼(よみたんざやき)があります。
1912年(一説では出生届が1年遅れたため1911年ともいわれています)に那覇市で生まれた金城次郎も壺屋の窯がすぐそばにあったこともあり、幼い頃から壺屋焼に親しんでいたようです。
沖縄の色は大地の色とも言われ、瓦や置物、陶器などに特徴的な赤土が使われ、琉球の大地から恩恵を受けています。
壺屋焼にも、無釉焼き締めや素焼きなどいくつか技法がありますが、金城次郎は壺屋焼で最も多く見られる赤土に白化粧を施し釉薬を使う「上焼(ジョウヤチ)」という技法を用いています。
陶工への道へ
12歳という若さで陶工としての道を歩むことを決意した金城次郎は、壺屋の新垣栄徳窯に見習いとして入門します。
時代背景もありますし、一概に早ければ良いということでもないですが、今の時代、なんとなくで仕事や就職先を決める人も少なくないと思います。私から見るとそんなに早い時期に自分の人生を見定めることができているというのも、頭が下がる思いです。
しかし、いざ修行をするぞと意気込んでも、まずは師匠に認めてもらわねばなりません。
どんな世界でもしばらくは雑用が待っているものですが、金城次郎の場合は約5年間も雑用や使い走りが主だったといいます。よくそんなに耐えたものだなと思いますが、それも陶芸への情熱や思いがあったからこそなのでしょう。
ロクロの名人と言われる金城次郎ですが、ようやくロクロを蹴れるようになったのが17歳の頃。
ちなみに今ではロクロと言えば自動の物を思い浮かべる方も多いかもしれませんが、当時の沖縄では足でロクロを回す「蹴ロクロ(けりろくろ)」を使っていました。
さらに余談をひとつ。
皆さんもご存知の妖怪「ろくろ首」ですが、そのろくろも一説では陶芸のロクロから来ているそうです。ロクロで作陶する際、土で花瓶などの首を作るとにゅるにゅる伸びていく様が似ているからということです。
特に腕の未熟な人がやると左右に振れてしまうので、まさにろくろ首そっくりですね。
なにやら話が脱線してしまいましたが、次回も引き続き金城次郎についてお話し致しますので、是非ご覧ください。
さいごに