金城次郎~沖縄初の人間国宝~後編
金城次郎について・後編
皆さんこんにちは。
ここ最近冷え込んでいてなかなか開花具合も進まないですね。
早く満開の桜の下でお花見がしたいです。
さて、前回は少し話が脱線してしまいましたが、引き続き金城次郎についてお話しさせて頂きます。
濱田庄司との出会い
これだけ有名になった今考えると当然でしょうが、金城次郎は陶工として早くから頭角を現し、才能を発揮していたようです。職人としての腕を上げる努力も惜しまず、常に陶芸のことが頭から離れなかったといいます。
そんな金城次郎ですが、彼の陶芸人生において多大な影響を与えた人物がいます。それが、濱田庄司です。
益子焼の陶芸家であり、人間国宝に認定され、紫綬褒章、文化勲章を受章している日本の陶芸、民芸品に大きな功績を残した人物です。濱田は柳宗悦が中心になって始まった民芸運動において訪れた沖縄で、金城次郎とその作品に出会い、早くからその才能を認めました。そして、「本土のものは真似せずに、沖縄独自の焼物を作れ」と言ったそうです。もともと郷土愛にも溢れていた金城次郎は、一貫して琉球陶器のみを作陶し続けます。
魚文と海老文
当初は二彩、三彩などを作陶していましたが、自分の陶芸を模索し続け、ついに誰が見ても金城次郎の作品とわかる作風に辿り着きました。それが魚と海老の絵柄です。
今では沖縄の陶芸といえば魚の絵を思い浮かべる人も多いかもしれませんが、それはまさに金城次郎の功績といえるでしょう。
市場でもこの絵柄の評価が高く、人気を集めています。中には魚が笑っているように見えるものもあり、使い手を楽しませてくれます。
終戦後には自身の工房を持ちますが、のちに那覇市開発の為、壺屋では登り窯が使えなくなり、読谷村に移るなど困難な状況もありましたが、自分の陶芸だけは見失いませんでした。
人柄も穏やかで優しかったそうですが、自分の作品については、「(高価なこともあり)飾って楽しんでくださるのも嬉しいですが、器、日用品として使ってくれるのが1番嬉しい。その結果割れてしまったとしても、使われることが陶器の役目ですから」とおっしゃるような方でした。
晩年は病に倒れ、思う様に作陶できなくなっていきましたが、それでも作れる限り、自分のすべてを陶芸に捧げました。
そんな金城次郎の作品からは、目に見えない力、何か圧倒されるようなものを感じます。
さいごに