横山大観~世界に名を轟かせる日本が生んだ天才画家~
横山大観について
「日本」この言葉を聞いて連想されるものはなんでしょうか?
神社やお寺?
四季や和食といったものも外せませんね。
ですが、なによりもこの言葉を聞いて日本を思い浮かべない人はいない!というものがありますね。
何だと思いますか?すでにピンときている方もいるかと思います。
「富士山」
この言葉を聞いたら誰しもがそれこそ海外の方ですら日本を思い浮かべるでしょう。
そして、そんな日本を代表する富士を描く人物といえば・・・
そうです。
富士と言えば横山大観。横山大観と言えば富士。
今回は、日本でいえ、世界的にも知名度、人気も高い横山大観についてお話ししようと思います。
横山大観の生い立ち
既にご存知の方も多いかとは思いますが、軽く横山大観の歩んできた道のりについてお話します。大観はお酒にまつわる面白いエピソードなどもありますので、気になった人は是非調べてみてくださいね。
横山大観は明治元年(1868年)に水戸藩士の酒井捨彦の長男として生まれました。
幼いころから絵画に興味のあった大観は、10代の時に渡辺文三郎から鉛筆画を習い、20代の頃には結城正明から日本画を学びつつ東京美術学校へ入学します。
その東京美術学校にて岡倉天心、橋本雅邦らから学んでいきます。
卒業後は様々なところの美術学校の教師などを務め、明治29年に母校である東京美術学校の助教授となります。
しかし、その2年後に東京美術学校の校長である岡倉天心が失脚させられたのを機に、天心を師と仰ぐ大観は助教授の座を捨て、岡倉天心と共に日本美術院創設へ携わっていきます。
美術院での活動の中、東京美術学校時代の同期生でもあった菱田春草と大観は西洋の画法を取り入れた新たな画風を展開していきます。
しかし、保守派の画家たちから批判を浴び、国内での活動が難しくなってきたタイミングで天心からニューヨークへ行くことを勧められました。
その勧めを受け、大観と春草は海外へ渡り、そこで高い評価を受けることとなります。
海外での高い評価の影響を受け、国内でも大観、春草らの新しい画風が評価されるようになっていくのでした。
その後も国内での評価はあがり、帝国美術院会員となり、文化勲章を受章されるなど確固たる地位を築き上げていくのでした。
大観と富士
明治・大正・昭和と三つの時代を駆け抜け、日本画を革新させていった大観ですが、そんな大観が描く富士に同じものはない。というのはご存知でしょうか?
大観が描く富士は全て大観が頭の中、心の中で思い描いている富士を表現したものだと言われています。
通常であれば、自身が実際に見た風景、姿かたちを描いていくかと思いますが、大観はそういった固定観念に縛られない自由な人でした。
大観が描いた富士は彼が心の中、頭の中で描いた景色を表しています。
また、大観は富士に対して神秘的な、それこそ神の化身の存在であるかのように尊いものとして捉えていたそうです。
そのため、富士を描くときは中途半端な気持ちや、気分が優れないときなどには決して描くことはなく、精神を集中し、神聖な気持ちである状態のときにしか描かなかったそうです。
まさにそれが見る人の心をも掴むほどの作品を生み出すことへと繋がるのでしょう。
昭和33年(1958年)89歳で亡くなるまでに描いた富士の数は1500以上と言われています。
これほど多くの富士を描いた画家はそうはいないでしょう。
さいごに
東京大空襲などで現存数は少なくなってしまったと言われていますが、まだ見つかっていない、公には出ていない大観の作品が残っている可能性はあると言われています。
もしかしたら、あなたの押入れの深い深い奥の方に埋まっているかもしれませんね?
今でも多くの人から人気のある大観の作品は贋作も非常に多いと言われていますが、、、もしかしたらもしかするかもしれません。
横山大観の作品が出てきたら是非!八光堂へお持ちください!
驚きの結果に出会えるかもしれません!